妹の話
妹が好きだった。変な意味ではなく、自分の家族に妹がいることが誇りだった。
勉強が出来る子だった。きょうだいはみんな同じ地元の進学校に進んだけど、おれとは違ってちゃんと中学から高校に入るタイミングでも成績をキープしてたらしい。この頃すごく痩せてたのはストレスから来る拒食症だったとのことだ。
気遣いの出来る子だった。いつも全然我関せずという顔をしているのに誰か友達の誕生日にはクッキー焼いてたり、おれが実家に帰るだけで喜んで何かお菓子を作ったりしてくれてた。「仕方ないからこの失敗した形のやつをやろう」って言ってくる。よく笑う子だった。
部活動が強い子だった。県外遠征もザラにあった。他の運動は出来ないと言ってて本当に苦手そうだったけど、適度に筋肉がついて痩せた身体にはおれより格段に高い持久力があった。「20mシャトルランの記録余裕でAいったよ!」「嘘だろマジで!?」「ハンドボール投げは一桁!」「いや嘘だろマジなの!?」とかな。
大学用ツイッターをフォローされてたから、「手術」という単語に反応して、おれのマイノリティにそっと触れてきた。嫌だったら言わないでいいよ!とかちゃんと気を遣われて、それから可愛いから読んでいたというセクシャルマイノリティの漫画をいくらか教えてくれた。LGBTsの情報を知ったのはほとんど妹のおかげ。
手術後に実家帰ったときはドキドキしてたけど、妹に痩せた?とだけ言われたな。その雑さがありがたいなあと思ってたよ。
挙げ出してしまえばキリはないだろうと書き始めたけど、思ったよりおれには妹の記憶が無い。悲しい。つついていた柔らかい頬がシリコンに変わってしまったことや棺桶に入ってからもこぼれていた胃液なら鮮明に思い出せるのに。
大事な家族だったはずなのに思い出にすらなってくれなかった。
人のきょうだいの話を聞くのが好きという同級生が居たから、写真を見せたりメール履歴を見せたりしてた。「昨日妹からメール来てさ!かわいかったから見せるね!」ってノロケみたいな勢いに対して同級生はリアクションがでかいからかわいいと言って悶えてた。
他にもいろんな人と話してるうちに「あ、これ妹も言ってたな」と喋りたくなるけど、人々が死んだ人の話をされてどう思うか知らないから言えない。おれは母に「こういうの、妹が好きそう」とか「これ妹が好きだったんだよ」とか言われても反応に困るもん。
途絶えた命にあった知らない好みって、命が連続しているって言えるのか?
もう妹はいないよ。断絶だ。記憶の糸をいくら手繰ったって空虚しかない。むなしい。
父の納骨のとき、妹は、人間の身体から骨になってしまったことを受け容れられずに納骨室の隅のほうに居た。橋渡しを母と共に終えた兄が、他の骨はほとんど入れずに妹の肩を支えていた。
骨がカリッと音を立てるたびにびくっと怯えていた。1つぐらいは入れてたかな。入れてたと思うけどな。
頭蓋骨は割れやすいから手で直接持ち上げて入れる。父のときは何故かおれがやった。
割れやすいのでお気をつけくださいと言われて、そっと持って、入れた。
そのとき妹は半ば兄に抱きつく形になっており兄は妹の背中を撫でていた。
そうだ、お前らは寄り添って助け合って生きてくれ。おれは一人で、しんどい役割やってたら、もう十分だ。
そう思ってた。悲劇の主人公思考。将来なんか知らないし怖いけど、楽しく生きていてくれたらよかったのに。
目的の話
確たる目的がないとなかなか人に気軽なメッセージを送れない。送ろうと思わないわけではなく、送ろうかな、いやでもこれ貰ってどう返信されるろっか?困るね?こんなん言うても意味ないね?と考えてしまって送信まで至れない。
いつも自分が打つコメントは的外れな感じもする。話の流れに乗り切れてない不安を覚える。
その邪推の末にふとした発言をできないことが多い。
なんでもないのにメールを寄越して来てたのはいわゆる過去の恋人だけだった。
なんか頻繁にメール来るから、何の疑問もなく返してた。(そこに「あなたのことを知りたい、もっと関わっていたい」という欲があったことに気付いたのはかなり後の話だが。)
この「日常に関与したいという下心」に気付いてから、どうでもいい話を送ろうと思い立って止める、ということが増えたように思う。
気付いていないうちは幸せだ。話したい時は話して話せない時は離れる。
ただそれだけ。いつだって一人の人と何分も話しているのはうまくない。黙っていると、「誰が話しだすのか」という空気を感じる。それで話し出すと知見の浅さが露見する。それを恥じてまた黙る。酷いサイクル。
俺は人の日常に関与できない。興味がイマイチ無いから。
生来持っている無関心さが時折虚しいけれどどう変えることもできない。関心を持てるように変わって、人様に興味を持って話しまくる姿も想像できない。
特定厨ってやつは誰か人様に興味を持てる人だと思う。良い行動とは言い切りがたいけど、その好奇心すげーなー!って思う。
人の発言を逐一覚えるとか、覚えられないというのは記憶の容量もあるかもしれないけど、俺が一方的に興味のある人の発言ぐらいはおれでも覚えてられる。ということは対人において好奇心を持って進んでいるんだろうと思う。羨ましい。
いつぞ(http://waterchroma.hatenablog.jp/entry/2017/01/21/001041)も言ったが、どうしてか俺はどこまで行っても一人にしかなれない。俺が他者を理解していないことは諦めている。
Win-winの関係なんてなれないと諦めてるから目的が無いふわっとした会話ができない。今景色のいいところに来たからとか写真を送ってみたくなるけどあの子の体調は今どうだろな今こんなふざけたこと送って困られたら申し訳ないなと思い始めると送れない。会話のオチもない。伝えたいこともない。
なので目的のあるメッセージは送れるけど、目的がないとキッカケもない。
もし誰かに突然何か送ったら人と関わってみたいという行動だから許してあげてほしい。返事がだるかったら未読スルーでいいから。目的無くてもまあセーフよと言われたい。そうやって自分を励ましたいだけかもしれないけど。
今日も元気に一人外に出て一人飯を食って帰った。
共有することに意味なぞ感じないのに何故か誰かに言いたくなるのは本当に不可解だ。
死ぬことへの欲求の話
時折死ぬという行動がものすごく甘美なものに感じてきて欲求が溢れそうになることがある。
とはいえ自分は社会的で理性的な動物であるから、ものすごくお腹が空いているときに定食屋に行っても隣の人に先に出された料理には手を伸ばさない。いいな~!はよ食べたいな~!って思うだけだ。
死亡することへの願望が、ごく自然な空腹感のような、欲求としての形でたまに挨拶しに来る。コイツとは早く絶交したい。
願望が現れたら目を閉じて頭の中で何度だって自殺する。外出先なら死ぬパターンを考える。意外とマルチタスクあるやんと最近判明したので自転車を漕いでいても色んな想像を出来てしまっていることに気付いた。
傷跡を握るとか拳を作るとかをして願望をやりすごす。タチの悪い事にこれがすごくキモチいい。背徳感と快感が腕の髄を走り続ける。同時に嫌悪感も走るが微々たるもので思考を止めるまでに至れない。
この感覚が腕から体幹にまで通って心臓を撫でたら理性はポンコツになるのだろうか。
痛いのは耐えれるけれど苦しいのは嫌だ。高校の頃の自殺未遂(のつもりだった)ODでもう懲りた。
刹那的な生活でいたくて快楽主義の生活はしたくない。どうせなら先がある上での快楽を求めていたい。ご飯を食べるとおいしいね。ぐっすりたっぷり寝れるとすっきりするよね。自殺から生還すると苦しいしヘロヘロだし無力感に襲われてたね。自殺を完遂してしまうと誰も喜ぶ人なんていなかったね。
空腹感が峠を越えると無くなるように、死亡することへの願望も峠を越えればあんしんあんぜん。寝不足だとよく来るね。
希死念慮と書かなかったのは果たしてこれが希死念慮であるか不安になったからだ。
死んだほうがいいとか人生が辛いとか感じてしまうわけではなく、ただ欲求としてあるだけだ。快楽として死に依存しているのではないか。
それともやはり腕を切りたいだけなのか。
三大欲求は円グラフのようなもので、全てのバランスを取れてるときが一番いいと聞いたことがある。
食と眠りと性に丁度良く依存できると人は丁度良く生きられるということだろうと解釈している。
高校卒業頃まで、性欲があまり掴めていなかったので、依存し損ねてしまったのかもしれない。代理の柱としての自傷行為への欲求が生まれてしまった。そこに付随して「よりキモチいいこと」として「死亡すること」という最上級がある気がする。
つまりきっとこのバランス感覚は一生もの。柱を壊したらおれもヤバイかもしれない。それは怖いから絶交したいとか言わないで仲良くやってくしかない。ていうか壊せるかすら分からないや。
死亡するという甘い欲求が溢れるときは我慢しきれずに死ぬときになる。
どうにかもっと甘い依存先を見つけて、丁度良く生きれたら素敵なのだろうな。
愚痴
性自認で困ってるという話。愚痴。
俺は善人であろうとしてる。存在感など皆無でいい。だけど善人であろうとすればするだけしがらみも後悔も生まれる。「善人」というラベルが邪魔で関係を断ち切ることなどができない。
ありがたいことに同年代の人の多くはあなたはあなたという性別でいいと言ってくれたり、まあどうでもいいんじゃない?と悩みを一蹴してくれる。この界隈の人ももちろんそうだ。多様性を許してくれる。ありがとう。
突然だけど親戚は好きですか?僕は好きでした。たくさん構ってくれましたし優しいです。
田舎の親戚というやつは「あの家に男の子が生まれた」「女の子が生まれた」を気にする。いや、世代的にも仕方がないのだろうか。日本人的であるのだろうか。
親は成長の過程を知っている。俺のために買われた女の子用の服はどうしても嫌で兄のおさがりばかりを着ていたこと、男の子とばかり遊ぶこと、制服が嫌で学校に馴染めなかったこと、すぐに体操着になっていたこと、チビの癖にメンズの服しか着ない、等。いい加減ここまですれば「女の子なんだから」と言い出さない親でよかった。
親戚は成長の過程をほとんど知らない。親戚内での二番目の孫として、「長女」として年に数回会い続けて来た仲だ。初めて生まれた「長女」としての前提があった上で良い子だ。合計10人足らずのいとこの中で2人しか生まれなかった「女の子」だ。もう1人だったはずの妹は死んだ。たった1人の「女の子」としての期待だ。女としての親近感を覚えた上での仲だ。死にたい。殺したい。
今日とてもいやになった。もう出来るだけ話したくない。好きだったと過去形にしたのは今日のため。できるのなら存在しないものとして扱いたいぐらいだ。
おばさんは若年性認知症と言われても驚かないぐらい物事を繰り返し言う。一度発言したことを覚えていない。だから何度も何度も何度も女の子とか女としてとかふざけたことを良心として言われて初めて嫌悪感が敵意として顔に出そうになった。出てたかは分からない。
喋るのが苦手だ。真実を話せば解決するかとも考えたが、何度も大きな声で繰り返されても困る。何より容姿や声が変わらない限りあの人は認識しない気がする。理解してもらえる気がしてれば俺だってこんな内向的に悩まない。
ただでさえ理解され辛い性自認と性指向であるのにどうやって理解してもらえばいいんだ。面倒臭い。こんな人と血が繋がってるのか。だるいな。死にたい。
逃げるしかない。
わけが分からないぐらい好かれてるのにこれを放置して逃げるのか?だるいなあ。本当にだるいなあ。居なくなったらどうなるかって一番できる子の兄貴がしんどくなるだけだろ。居なくなった出来る子たちの幻想にいとこ達は振り回される。そんなんはいやだ、良い子とか善人ってこういうところで覚悟がいるのか、キツい。何がどうなっても構わないつもりだったが全然そんなことはなかったらしい。
全部笑ってたら終わるよ、大丈夫。
とりあえず余裕はまるでないのだけど本気で性別移行考える。もうやだ。だるい。しんどい。
不満の話
後輩に遅れた反抗期が来たらしい。大学の後輩だからたぶん20歳ぐらいだろうが反抗期は大切だ。
その際には味方となれる人間や尊敬される先輩もたぶん必要だ。
反抗期だからってトゲトゲして誰とも話さないわけではない。ヤンキーと呼ばれていた友人たちは友人”たち”だった。やつらには仲間が居た。
そういうわけで、否定しない人間は必要であると思い、出来る限り否定しないで相槌ばかりを打ってきたよ。果たして正しい行動なのかは分からないね。
いや、意外としんどいな、これ。
自分が通ってきて何か理由をこじつけて納得していた道に、現在の負の感情を添付して伝えられるんだ。自分には今だから分かることも色々あるけど、それを彼に伝えても否定にしか繋がらないから言わない。面倒だし建設性もない。否定されると分かってる仮説を主張するのは体力がいる。
逆もまた然りか。主張を否定されるのは面倒だよな。と思いながら帰ったけどどうなんだ?否定された上で主張することが好きな人もいそうだよな。肯定されることだけが最良じゃないよなあ。
お互い体力は使うことになるがそうして主張を確たるものにすることはできる。その不満は確たるものにしていいのか?
思春期なら別にディスカスしてなんぼって感じはするけど反抗期をはいはいそうだねって撫でてるのはふさわしい行動だったのか不安になってきた。
過ぎたことをどうこう迷ってもしょうがないからあいつのことはまあいいや。
世間的な間違った道に進んだらごめんな。その調子で目上を責めて自分の正義を思って健康を損ねなければ学部柄どうにかなるぞ。免罪符使ってけ。
あまりないとは思うが、今後こういうことがあった場合どう接すれば正解だったかを知りたい。
「自分が悪いとは分かってる”けど”○○さんは××だった。」
この発想難しい。割と聞くけど、単純な人間だから「悪いなら解決では?」と少し思ってしまう。そう言われたいわけじゃないだろうとも感じるから、言わないけど。
俺には過ぎたことを悔やみ続けるほど体力がないだけか。あとから別の人間に何言ってもかわんねえし。
全部受け止めるのは楽だ。多少喉が濁っても消化されたら身体になる。
………お?これは素直に思春期も反抗期もできてなかった証拠か?
気持ち悪いものを消化してたら不随意な身体ができたと?お?すごいな?こんな共通点が出てくるとは思わなかったな?
濁らせないことと、そもそも濁りを濁りと思わないことが大切ということか。
ってことはあれだ、納得しなかったことを納得しなかったと言う時間はやはり大切なのでは?
人に吐露することは濾過のような行程かもしれない。差し出された泥水を飲むことはできないから人というフィルターを通してから飲もうとしているのかもしれない。頑張ってるんだな、後輩よ。
そんならどうすることがフィルターの役割か。そのまま垂れ流してしまうより大きな粒子を取り除いて少しでも透明に近づけることだろうな。
失敗したな。精進します。無責任ではあるけど、強く生きてくれ。
身体の話
今日何してきたかはまあいいや。面白くない。
基本的にノリノリで行く人間なので何故か友人と上着の交換をして謎に抱き合うとかしてましたけど贅沢を言うなら今みたいな頭は重いのに無駄に力を持て余してるときにしっかり抱きしめてみたいですね
— ハジ (@waterChroma) 2017年2月23日
帰ってから当然のように無力感と疲労感が遊びに来た。やつらが苦手で緊張すると身体が強張ってくる。
どうせなら外に居続けてしまえばその感覚と縁を切れるって言うなら是非とも完全にパブリックな人間になりたい。でもそううまくはいかない。
うまくいかないならこの緊張をどう発散するかだけど、クッションを抱きしめるとか布団を殴るとか、明確じゃない反応(骨のなさかな?)が苦手なので例えば未払いの請求書を眺める。ろうそくに火をつける。電子タバコを吸うなどする。いずれも頭は鉛のようですぐには戻ってこれない。
痺れるような筋肉のひきつりはどこにもやれなくて蒸発するまで待つしかない。
ツイートを引っ張ってきたが、こういうやり場のない感覚を生き物に触れて発散できたらどんなにいいだろうか。発想が利己的で嫌だけど弱ってるときにどうこう言っても何もできねえから、発想ぐらい垂れ流すよ。
人間てすげえよ。温かくて柔らかい。冷え性の人で冷たくても柔らかいんだ。
初めて死体を触ったのは父親の身体だった。朝6時に病床で静かに死んだ身体は、朝10時に病院に着いたとき段々温度を失っていた。顔も手ももうほとんど冷たいけど、首の後ろとか、まだ温かいんだよと母が教えてくれて触れた。本当に温かかった。
父の手はまだ曲げることができたが文字通り力なくて、これが人間だったのかと腑に落ちなかった。
温度が残っていても死んだ人はどこか硬くてシリコンみたいだなと思った。
ボロ泣きして騒がないように気をつけてできるだけ静かに泣いた。認知症の父方の祖母が到着したとき泣きながら父の身体を触りまくってた。遺体を綺麗にするから少し待合室に行けと言う医師の言葉を聞かないから、仲のいいほうである俺が祖母に声をかけたら「親が死んだと言うのになんて薄情な子だ。感情もないのか」という旨のことを言われた。
妹は「治すために転院したんじゃないの、毎日お見舞い行けないのに我慢したんだよ、なんで死んじゃったの」と俺ができなかったボロ泣きの大騒ぎをしていた。
こんなに正しく悲しめる子なら大丈夫なんじゃないか、きっと生きていけると、軽視した自分を恨むと同時に、やっぱりおれもつらかったし悲しかったし何が間違ってたんだろうと思う。
納骨室での兄と妹の姿は助け合って生きるそれではなかったのか。
生きてると温度があるし動きがある。声とか、その人の体臭もある。人格もある。
身体は柔らかくて中に骨や筋肉が詰まってる。圧倒的な知らない経験が重なってる。
その複雑さを優しさと勘違いしたままでいいから、つらい時にそう言って誰か優しい人を抱きしめてみたい。許してほしい。
明らかに家族以外の人を作るべきだよね。俺は薄情すぎて誰とも需要と供給が合わない気がするよ。
一人と分かってるのにこういうとき都合よく寂しがり風情を出すなあ。嫌だなあ。
未だに父の死を悼めることにもボロ泣きしながらタイピングして気付いた。そのうち書く。
セルフカウンセリング。セルフ曝露療法。危険ですので医師の管理の下やりましょう。
中毒の話
今日はamazarashiのCDを買うために街まで出た。
途中住所変更手続きをして、必要なものを買いに出た。
そしたら店が休みだった。仕方ないなとコンビニに入ったがまたなかった。
今日はもうついてない。ことごとくダメだ。ああまた腕が裂けそう。って普通に考えていたけれどこれうつヌケで認知の歪みとして紹介されてたやつにそっくりだなーって「みんなやってる」の呪縛にそっくりだなって落ち着く。
全然身体は不調になってるけど気分にはそこまで影響しなかった。オッケー元気だ。
元気でも相変わらず血を流す。これはなんなんだろう。
一度身体を切りつけてしまえば落ち着くかもしれない。そういう信仰は脳裏を掠めるけれどアル中は何年断酒しても一度飲んでしまえば元の木阿弥と吾妻ひでおが言ってたからそっちを信じたい。
中毒なのだから一度だけとやったってその快感に溺れてしまうだろう。僕は弱いんだ。
自傷行為をやめていた人が一度切ってしまっても否定しない。今までがんばったしまあセーフじゃない?とかうそぶくと思う。
自分のこととなると扱いが変わるのは不思議だ。
おなかが鳴ってる人がいると「おなかがかわいそう」と言う。
眠いと言ってる人がいると「寝てあげろよ」と言う。
自分のこととなると空腹を放置して峠を越すのが面白くて、眠くたって峠を越す感覚を求めたくもなる。
人に優しく自分に厳しくを履き違えちゃいないか?それは(恐らく)精神論であって体罰の話じゃないぞ。体罰を与えれば厳しいことにはならないぞ。
おなかが鳴ったら食べて、眠くなったり明日が早起きの予定だったりするなら寝て。それで健康に生きたらいいじゃない。
自傷行為を過剰に嫌がってるから囚われるんじゃないか。
もっと意思を受け容れて、イメージの流血を抑えてあげたい。いい加減貧血なっちゃうよ。
弱さを認めて、意思を受け容れて。
人のことも自分のことでも否定せずにいこう。それがなんだか最強な人間だと思った。
最強最弱で存在が希薄。あぁ、なんかいいね。死ぬほど中二病。
結局CDは買えたし、ラーメンも食べた。過疎キャスに遊びに行ってみたら落ち着いてて素敵だった。いいところを拾っていけばいい日にできるいい日だった。
明日は早いので寝る。おやすみなさい。