20170921
ブログを書いていなかった理由、こっそり教えましょうか。ただ単にキーボードがある空間にいなかったからです。それ以上もそれ以下もなく、相変わらず急に何かについて考え出したり、本当におれは食べるのが遅いんだな!と気付いたりとかしていました。
最近のメンヘラ.jpは興味のそそられたものしか読んでいない。なんとなくだけど群れや徒党とかそういうものの圧力を感じる。フォロー削って人数が減ったからそう感じるだけだろうか。割と今のTLは気に入ってるはずなんだけど。
ネットでまでわざわざ見たくないものを見ることはないからいつでもフェードアウトするつもりだからいいか。うん。
そういえばガラケーを使っていた(高校生)頃からメンヘラサイトを頻繁に見ていたけど、おれが見ていたのは掲示板だったから、あまり人の書き込みを人が書いたものとして認識してなかった。
おれから出た後悔や怨嗟や悲嘆が人の書き込みの姿を借りてるのではとすら思っていた。誰か個人に対する恨み言なんかはドロッとした感触で気持ち悪いけど、ただ「辛い」「悲しい」「死にたい」「寂しい」「なんで自分だけ」と新しい書き込みが発生し続けたあの掲示板は泥というよりはむしろ水道水みたいな透明さがあった。無限に誰も触れないスレが流れ落ち続けるみたいなね。
個人を判別するものが入力する自分の名前と年齢、性別、それから自動で書かれる機種名だけだった。イラストも画像も無し。同じ機種を使ってる人なんてたくさんいるから、入力する情報を適当にブラせばもう違う人になれる。良くも悪くも無機質な場所だった。
そんな無機質の中に、自分の考えとまったく違うことを書いている人が居るとよく考えこんだ。誰もみんな暗い中から救われたいというシンプルな気持ちで書き込んでいるはずなのに、明らかに救われようとしてねえよなとか。
当時テキストサイトだったかブログだったかを作って疑問に思った言葉を掘り下げていた。あまりに理解が出来なくてむしろ話を聴く為だけのキャラクター性を作ったりもした。一々自分語りを求めるヤツ。たぶんこの話前もしたことあるな。
話が少しそれたけど、今もTLでそういう理解のできない経験からの理論だとか、純粋過ぎて理性的じゃない疑問(「何で自殺したら駄目なのか」とかね。駄目だ死ぬなとかって止めるのは僕には難しいからとりあえず落ち着けって言うからね。)を拾い集めてる。
家族のスタイルが全然自分のところと違う人の話や、素人目に見て明らかに病状だったりするものは感覚できる視点を拡げることができる。
ある種の創作行動や思考のタネを収穫する場所にしては、日常が多いよなあと失礼なことをふと思いました。そんで、「つぶやきだから当然じゃん…」って気付いてしまいました。
フォロワーが増えたと思ったら減るのも、去った人はおれと傾向が似てるということなのかもしれない。別に他人の日常を欲してなくて思想を発信して欲しいとか。お子様は名言botでもフォローしてな、おれはあの類ばかりフォローしてるアカウントもあるぜ。お子様だからな。
所属できないとか孤独とかそういうものを感じるのは、単純に自分が冷たいというか人に寄り添おうと思ってないだけなんじゃなかろうか?寂しいのに観測者でいたがるみたいな。
そんなこと思った鼻炎の夜です。ずびずび。おやすみ。
故妹の友達が来てる話
今故妹氏の友達だった子が遊びに来てくれてるそうですが、僕は他者が居る時リビングにもキッチンにも行けないので詩を書こうと思いました。しかし一ヶ月以上ブログを書いてないことに気付いたので書きます。開設から半年経ってる通知メールはちょっと前に来てたよ。わーい。
故人の友が遊びにきてくれることについて。
故人がいいやつだったという証拠である。勉強もできたし中学までは友達がたくさんいた。高校に入って人間関係に躓くというおれと同じルートを辿ってしまったようだが、自殺後(もっとも自殺とは公表していないが)も友達が遊びに来てくれるなんてすごいやつだ。
さて、この遊びに来るこれ、一体どういう、何の意味があるんですかね?
本人はいないのに。よく分からん。
妹のキャラクターだけではなく母のキャラクターも影響はしていると思う。もし遊びに来ても無愛想なおばさんしか居なかったら来たくないだろう。やたら明るい母だからこそ来てくれるのかもしれない。
だったらこれは妹の友達が来てくれるというより母の友達が来てくれるって言ったほうが近いのか?二十歳にも満たないやつらもうちの母の支えになろうと頑張ってくれてるのだろうか。だとしたらすごいしだとしたらもうちょっと歓迎しなきゃ。あんまり友達の家に意味なく遊びに行くって経験をしてないから意味がないと人は来ないって感じがしちゃってるんだろうね。これは確実にコミュ障の弊害。意味なくやるを心がけないとすぐできなくなる。
「別に誰が来ててもリビングに居ていいよ」と母は言う。確かにそうだよなと思うけどおれは面倒くさい。
人って多面的な生きものとか球体みたいになりたいってアホみたいに抽象的な話を前にしてました。
球体になりたいけどまあ全然なれてないわけですよ。ずっとニュートラルな球体でいたいけど、家族や親しい友達に会うときと初対面とか友達の友達ぐらいの人と会うときはやっぱ違って、後者のときは緊張してカカッと面が発生する。
この取り繕った面のことを少し恥じている。多面的にならざるを得ないのが恥ずかしい。求めてる完全体が理想的すぎる。
なんだろうね、これは。心の壁を作ってるときに、内側から観察してる人がいるというのがイヤなのかもしれない。
逆に完全に知らない人しかいないところに行けば無双だ。一人で飲み屋も行くし、なんなら隣のソロ客に話しかける。暇なら。暇そうなら。
無双してるときは何も守るものがないです。失うものや守りたいものがない時が楽と思います。
他者からの評価を失いたくない守りたいと思ってしまうからこうなるんだな。
勝手に納得しました。大事にしているものを自覚して捨てるまでをやれるといいな。
好きな漫画でも「大事なのは執着しないこと」って言ってた。委ねてしまおう。
まだ妹の友達帰らないです。おしまい。
生きてる話
ここ一週間ほど滅茶苦茶な量の動く物体を見てる。特定の他者と関わる前はただの不規則に動く物体であったり、コンテンツとして消費したりするのに、話しだして仲良くなればなるほど物体は人間になる。不思議だ。
おれの主観から見て人間になる以前の物体たちが大量に動いているのは気にしないふりをしてもやはり少し怖い。群像が倒れこんでくる。群像が雪崩れ込んでくる。それぞれの意思を持って。どこか決められた道筋で。どこか決められた平均値の上を。いつも変わらないルートで。どうせ終わる日常で。うへぇ。
故郷にいると心臓が重たくなる。実際心臓が重いなんてことはないだろうからイメージだろう。
楽しくやれる。母のテンションに合わせて。たまに兄貴が遊びにきてくれて。犬はかわいくて。ネットサーフィンしかしないパソコンを開いてぐだぐだ毎日を過ごしてる。それでも自然は豊かだし、感性を刺激されるタイミングはたくさんあるはずなのに感覚が鈍磨していく。
生き抜こうとしなくても生かされてるのだから当然だ。
自転車を全力で漕ぐとき、実はかなり生命の危機を感じる。
何度か真夏に自転車を全力で漕いで軽度の熱中症に陥ったことがある。暑くて、普段は汗をかかないのに汗で体がびしょ濡れで急に腹を壊した。トイレに入っても座ってられなくてそれより暑くて気持ち悪くて正常な判断が失われていく。この暑いまま死ぬのか戻れないのかと何度か思ったことがある。なのに、全力で漕ぐ。
自転車はノーヘルだけど道の安全を確認できれば平気で時速40kmぐらい出す。繰り返すがノーヘルだ。アホか。
一瞬運転をミスったら死んじまう高揚感を喉から耳にかけてためこむのが気持ちいい。
死や恐怖に駆られてやっと心臓が動くんだ。こうやって書いてる今は故郷を大事にしない背徳感で生きてるって感じがする。
生きてるって言ってみろって文を見たことがある。あまりその人の言葉には詳しくないけど。
今おれは自主的に生きてるのか?受動的になってやいないか?生きてるって言ってみろって。
そのだるい靄を針に変えよう。
友達の家に居候してる。
でも友達は出張中(?)だから擬似的一人暮らしだ。
飯もないからスーパーに行って、極弱い離人感に挨拶しながら買うものを考える。スーパーの情報量は人を殺しにかかってると思う。
弱い離人感を殺すのに必死になって、スーパー出てしばらくすると、生きてるって感じがする。
足のポンプはまだ健在。息はあがりやすくなったがまあまだどうにかなる。
命の危険がある場所って楽しいですねって感じで。おしまい。
プールの話と詩
この所雨がすごかったり暑かったり落ち着きませんね。今日は気温こそたいしたことないですがちょっと溺れそう。
散歩をしたら小学校のプール指導のような声が聞こえた。あの頃のプールって楽しかったよね。僕は好きでした。着替え時間も含めて2コマぶち抜きで体育になってて、シャワーめっちゃ冷たかったりして、自由時間は潜水ごっことかして。次の授業の時身体というより意識が完全に重たくなってる感じ。いかがですか。エモっ。
おれは泳げるタイプの子どもでプールも好きでしたが、身体に対する違和感を覚えてからは授業以外まったく泳いでいない。高校まではプール授業があった。
プール好きだったって言っといてなんなんだけど、あれはトランスジェンダーには大変に残酷だ。
男女完全区分けならば自身が分けられた場所に居心地の悪さを感じるし、男女同時にやっていると「なりたい身体」と「自分の身体」の差異がどんどんクッキリしていく。同じコマでやっててもどうせ男子A,B,C、女子A,B,Cとかだしね。
まあ思春期にプールってだけでもある程度残酷なのかもね。あらぬ誤解を生み生まれしてるのかも。
知らないけど。
先日、「普通になりたいだけ」という意味で言えばトランスジェンダーと発達障害は近い位置にあるのかな?と思った。
俳優の誰々みたいになりたいとかじゃない。イケメンになりたいとかでもない。高身長じゃなきゃやだってわけでもない。ただ普通になりたかった。そこらへんを歩いてる有象無象みたいになりたかっただけだ。
こんなのただのないものねだりだけど。まあ人並みになりたかったよねって、少し勝手な親近感を覚えた。
おれと性自認とかが似た友人の一人は「身体の性のまま年を食うのは耐えられないからいずれホルモンを打ち始める」と言い、もう一人は「ハゲるのはやだからまだ考え中だ」と言っていた。人並み、欲しいですね。考えないで任せておいても普通に成長(老化?)すると普通のルートが待ってるって羨ましい。おーいえー。
夏、夏ですよ。
そろそろ妹が死にましたよ。きっとです。いや命日は8月なんですけど。昨日の暑さは近いものがあった気がしました。
暑さに頭を持っていかれるな。イカレてきたら冷静に水風呂に入ろうな。頼むよ。冷たいシャワーでヒャアッってなろう。
詩です。××には地名が入っていたのですが特定がいやなので伏字です。そう伏字入りの詩です。
―――
××の地の湿度に今日も
溺れながらも汗をかく
ここから出られぬ焦燥が
再びぼくに降りかかる
ただのふとした思いつきが
ぼくの迷走を二段飛ばし
ロシアンルーレットじゃぬるい
あいつにそんな度胸はない
ふるさとの地の夏の力は
あいつの頭をとかしてた
葬儀屋さんのドライアイス
腸の生きものを黙らせた
ふるさとの地よ、どこかとおくへ
××の地よ、離しておくれ
ふとした思いつきの罪状
溺れながらも呼吸しろ
ぼくは生きたままで逃げる
20160822
―――
妹氏死後一作目です。
逃走したいですね。したくないですか?おれはしたいです。
中原中也の詩集を開いたら語感がすごく良くてよかったです。透明感は好みじゃないけど音がいい。
電話を待たないといけないから書き始めたのですがまだ電話来ません。出かけていいですか?
おしまい。
20170708
男性的な性規範が怖いから自己認識が中性であるわけではない。成れなかったものには成れないから、二極のどちらにもなれなかったのだ。
万人に伝わりそうな例を考えると、「猫は猫であるからいくら自分を犬と思っても犬には成れない」とか。どうですかね。
猫であるという事実は他者から規定される。いくら犬の振る舞いを身につけていてもお前は猫だと他者から規定される。体格から、鳴き声から、体臭から。
こんな第三者からの決め付けぐらい吹き飛ばせばいいと思うだろ。吹き飛ばしたい。
ただこれが如何せん面倒で、二十余年の生活(特に制服が必須で第二次性徴が起きる思春期)で獲得してしまった事実だから難しい。過去の自分を振り払うのが難しい。何度かリセットをかけてると思っていたが足りなかったらしい。
完全に犬の振る舞いを自分のものとした猫は、己が猫であったと気付いても猫のコロニーに戻ることは難しい。己は犬であるという誇りがあったはずで、猫の仲間ではないと思っていたからだ。猫はそのうち、「己は犬だと思っていたが、犬ではないと規定されたために、犬でも猫でもない何者か」になってしまう。
こういうアイデンティティの揺らぎが思春期頃の経験。
「猫は魚が好きなはずです。違えば猫じゃありません」と教育されるのが同性愛者のアイデンティティが揺らぐ方向性でしょうか。違ったらすみません。
そういやセクシャルマイノリティの皆さんは他の精神疾患を罹患する率が高いそうですよね。いやぁ、分かる分かる。マジョリティはたぶんこういう揺らぎは起こしてないんだもんな。すげえよなあ。逆に精神疾患人口からセクシャルマイノリティ人口を測ったら何%が来るんだろう。こういう統計きっとあるよね。落ち着いたら探してみよう。
僕は僕ならではの体格をフル活用してしまい死にたみを増幅させてしまいました。
大体の場合(限りなく100%に近い場合)は笑い話とかネタで言ってるので笑って欲しいんですけど、下手に共感されるとお前に何が分かるんだと暴れてしまいたくなります。暴れる才能なくて泣くだけなんですがね。こういう時、親友を殺された洋画の主人公とかみたいに怒りと悲しみで狂えたらいいのにねって思うよ。だけど母さんだってこの体格に生みたくて生んだわけじゃないだろうからね、お門違いってヤツだよね。こういう時理性的だよね。えらいえらい。
僕はチビの癖にレディースもキッズもあまりデザインが好きじゃないからメンズしか着ない。メンズの棚に並んでる服にはすげーいいなーって思ってもSサイズは存在しなかったりするし、たとえ在っても丈も袖も長い。
足が驚くほど小さいのでメンズはない。なのに靴屋で見るメンズシューズは大体かっこいい。これを履けたらいいなと思う。そんでレディースは大体好みじゃない。キッズはキッズなりのエナメル加工とかがムカつく。
高いところにあるものは生活だけで鍛えられたバランス感覚で普通に脚立のいちばん上(本当は乗るなって書いてあるよ)に乗って取る。
いいなと思った鞄だって体格と相対的に見てしまえば大概でかい。
でかすぎるものは格好悪いといつか自ら思ってしまった。
なに、この縛りプレイ。ドMなの。気持ちいいとかほざく前に死んじまう。勘弁してほしい。早く抜けださなきゃ。ヤバイなと。
そんな日でした。
あの服もあの鞄も欲しかったな。悲しいな。おわり。
自責の話
なんとなくどうしようもないので、「自責」について考えてみようと思う。
自責は生むものが少ない。
自責とは自分を責めとがめること。(広辞苑より)
責めとがめたその先には何もない。自らが起こした心の動きだから、罰の形を誰かから与えてもらえないのだ。
カッとなって知らない人を殺してしまって、たまたま逃走が成功してしまった。なんでもなかったように幸せに暮らして、黒々とした気持ち悪さを抱えたまま生きるようなものだ。細い自責が続いていって、あの日の事件で崩された未来とかそんな番組になったら見ていられないんだ。幸せなフリをして生きていく。苦しいままで生きていく。
さっさと捕まって「オメーは人を殺したから無期懲役だ。」そう言われてしまったほうがよっぽど楽。法規から贖罪の方法を教えてくれるから。
もしかしたらもっと開き直って悪者になるのかもしれないけど、おれは人を殺したことがないから実際どうなるか分からない。
自責がただ責め続け潰す行為ならやめたほうがいい。つまり自傷行為の一環としては本当に身を滅ぼしかねないからほどほどにしないとちょっとヤバい。自責から明確な罪の形と、それを清算する方法を見い出せる余裕があるならいい。死なない程度の自傷行為ならいい。
例えばおれは、なんで妹の心の声をもっと聞かなかったんだとかあの日の昼になんで帰らなかったんだと散々自責した。余裕のない、自罰的な行為だったと思う。
ただの悲嘆反応のようにも感じるが、夜などは泣き出すと止まらなかった。
屍を背負って歩き出す覚悟がなかったんだろう。
話がズレた。今日は妹の話を書きたい訳じゃない。
人付き合いから発生する自責に至る前に、自衛するのは大変良い手です。一度ケンカした人には仲直りしてもあまり近付かないとか、あ、話すようになったはいいけどちょいこの人やっぱ合わねーやと思った「友達」とは必要以上に接触しないとか。
小学生のときならいざ知らず今現状は仲良くなれるタイミングじゃなかったとか、そもそも根幹にある人間性が合わないとかクソほどある。人間性が合わないのになんとかやっていくなんて面倒くさいことやらないでいい。
まあこういうのをやりすぎな感じで極めていこうとするとたぶん一匹狼の紛い物のぼくみたいになるんですけど。これはこれで孤独に震えることもあるよ。だけどやっぱ人同士のしがらみがない分シンプルでいい。
自責する自分に酔わないこと。誰だってより良く生きたいから戦争だってあるんだろう。人間であることを諦めないでいい。辞める必要もない。許されないなら自分ぐらいは自分を許してやろう。相手だって所詮人間だ。
もう一回だけでも、心から笑えるようにやってってくれたらなと思う。
書きながら思ったんですけど、学生時代って色んな人と顔こそ合わせるけどツイッターほど四六時中どうしてるかなんて絡んでなかったよね。授業とかめっちゃあるし。
「あ、こいつつまんねえ」って思われてあんまり誰も話しかけてくれなくなるとか。だけど毎日誰にでも明るく挨拶してるあの子はおれにも平等に挨拶して話しかけてくれるとか。はぐれものたちの仲間にいれてもらってそこでもすみっこにいるとか。ああいう緩さがいいな。
楽しければ一緒にいて、楽しくなければ去って、落ち着けるなら居て、だらだら追いかけない。コミュニケーションてそんぐらいでいいね。おれはそんぐらいでいいや。
割とスマホ依存発症してたんですけど、これまでスマホ触ってた時間にハンドスピナーいじるようになったらなんか大分落ち着いたのでおすすめします。お腹が減ったので、おしまい。
ツイートの補足のようなブログ
カントー地方から地元に帰った。ふるさとは遠いぐらいがちょうどいいね。この井戸の底にいちゃいけない。
気を遣われてるから遣い返すの、正直あまりメリットないから次回にとっておいたほうがいいと思う(夜更かしへの警鐘)
— ハジ (@waterChroma) 2017年6月24日
家族と酒を飲む事になると「飲む事」にかなり要点が来る。母は何度も「お酒飲める子たちでよかった」と言っていた。もし飲めなくなったら価値ががくんと減るんだろうか。反面教師や教師たちがTLに多く居るためか、単に欲求の問題か、最近は飲まない日が多いんですけど。よくない子になってるのかな。
飲み会のようになると自然と夜が遅くなってしまって、気を遣って起きて喋ってくれてるなあと思う。そう気付いてしまうと恩(?)を返すために会話を続けてしまう。やがて向うは眠くなるととっとと寝る準備に入るが、自分は相手のために慣れない夜更かしをしているのに何をしているんだろうと思う。耳は疲れてギギンギギンと響いているのに、何をしているんだろう。誰のために何をしているんだろう。
ここ最近で虚無と感じていたものより遥かに強大な虚無感が来て、他人事のようにこれはつらいと思った
— ハジ (@waterChroma) 2017年6月24日
風呂がしばらく使えそうにないから自室に帰った。整髪料を使っていたし汗で身体がすごくべとついていたから流したかったのだけど、先取りされたから仕方ない。部屋で座りもせずに「何をしているんだろう、何がしたいんだろう」と思っていると何故か涙がこぼれてきた 。鉄槍が喉から腹にかけて貫通したような重さ。痛み。ぐるぐる回る赤黒い線。死ねば解決する、終われる。簡単に、どうせお前の人生なんて。
久方ぶりの、強大な感覚でした。すぐ主導権は取り返せたけど、高校生のころは毎日毎秒こうだった気がするけど。
これがエネルギーってやつの片鱗か。そりゃ気軽に生きろなんて言われたら爆発四散するわ。言葉には気をつけていきたい。薬飲んで寝ろ。
実は23日の時点で「文字を読み、読み上げること」に不快なばらつきを感じていたし、実家という地に帰ったことに伴う精神不安定だと思うから寝たら治る気がするんです
— ハジ (@waterChroma) 2017年6月24日
おやすみなさい
文字を読むことにはたまに不思議な怖気がする。それが読む行為だけにとどまることもあるし、二次元から音の振動に変わることな時もある。カラオケに行って普通に歌っていたら突如整合性が崩れた。途中からは歌詞を覚えていればできるだけ目を瞑った。カラオケはほとんど大声を出す場。一緒に行ったやつは歌うまだった。
「理解」という行程が何となく最近怖い。生活では意識してなくてもやってることもあるんだから冷静にいってほしい。
カントー滞在中大学の頃の友人と、メンヘラ.jpつながりの友人と会って、何がデフォルトだろうかと考えた。
希死念慮を思い出したことにより「あぁ、俺、現在は健常なんかな…」となった。健常社会にピリッと溶け込みだすべきなのかもしれない。
メンヘラであろうとは思っていない。ならどうだろう。
どうやってく?何してこうか?誰でもなくただ自分のために。楽しさのために。やりやすさのために。
ちょっと決めなきゃならんのかなあと考えてる。どうなりたい?何がしたい?
連日の夜更かしが響いてこんな時間です。まいにち夜10時に寝たい。おやすみなさい。