※個人の見解です

思考の整理や自分語り

20180911

高卒で就職した友達はバイトをやったことがないから羨ましいと言っていた。

大卒でライブハウスに就職した後輩は楽しくやってるらしい。

家の裏を通る農耕者の持ち主をおれは知らない。

憧れの人からメッセージを貰った人がテレビに映ったけどどれだけ嬉しいか分からない。

スーパーに停まってる車がどこに帰っていくのか分からない。

コンビニで特徴的なレジをしていた人はいつの間にか居なくなってた。

中学生の頃の友達は法学部を目指してたはずが漫画家を目指してながら働いている。

大学の同期のうち何人かはまだ大学に居る。

発達障害傾向と二次障害で新卒で入った会社を辞めた同期がいる。

友達は二度就職したのにどちらもブラック企業でさっさと無職になっていた。

 

友達の気持ちを知らない。他人の気持ちなんてもってのほかだ。

「バイトをしたことがないから羨ましい」と言われて茶化してしまったけれどもしかしたらとても強い決意を持って教えてくれたのかもしれない。

友達の決意も緊張も分からない。おれはそいつじゃないからだ。おれはおれの視点に居る。

 

平然と、何事もないかのように地方散策番組に映る一般人。もしかしたら心臓がガンガン鳴ってて緊張で痛いぐらいかもしれない。肖像権ガーとか思って怒っているかもしれない。芸能人と話せてすごく嬉しい気持ちかもしれない。

 

友達、君はどこの高校行ってどんなとこに勤めてるんだっけ?おれには関係ないけど。

後輩、満足してんなら何よりだ。暮らし方も知らないけど。

農耕車の人、跡継ぎはいますか。おれには関係ないですね。

テレビに映った一般人、話す機会は永劫ないと思う。

スーパーの車、何台あるんだ。何個の違う人生があるんだ。

レジの人、呼び捨てで名物扱いされてたの知ってますか。まあどうでもいいよね。

友達、絵描くの好きだったなんて知らなかったよ。ところで結局大学も入ってたっけ?

同期、モラトリアムを引き延ばしてるのかその道を極めたいのかどっちだ。まあ、引き延ばしてたはずがうまく行ってるなんて人よくいるし、いっか。

同期、落ち着ける生き方があるといいね。おれは向こうに行ってみるよ。

友達、無職仲間だ、仕方ないし笑ってこうぜ。

 

人はどうしたって一人だ。それは事実だ。だから自分の形を正しく認識する必要がある。

あなたの「死ななければならない理由」、基本的人権が認められてる国なんだから大丈夫だとおれは思うよ。死にたさより生きていてもいい理由を外注できるといいね。

 

他人の価値観や感情は見えないし分からないから自分の辛さや苦しみ、迷いにばかり焦点が当たる。「幸せそうにしやがって」とか、「悩みがなさそうでいいね」とか。

「幸せそうで悩みがなさそうな人」も辛い日ぐらいある。ただ隠すのが上手いとか、こちらの感受性が低いだけとか。辛さを吐露しようとすると息が詰まってしまうから、笑顔でいたほうが楽な人かもしれない。

 

視点を増やすには自分の存在を確認する必要がある。卑屈になりすぎて肥大化してやいないか?おれら案外小さいし別にいてもいなくても大して意味もない。

だったらなんか好きなことかましてやりたいなっておれは思うのです。

今日はラーメン食べたいな。おしまい。

20180816

「最後だと知っていたならば」。

何をするでしょう。何と言うでしょう。

 

最後だと知らなかったからこその今を、どう生きればいいんだろう。

 

悲しい空しいというよりも違和感がすごくて何か書き始めようと思ったのですが、まだ違和感が明瞭ではないようでキーボードが進みません。手が重い。いつもブログを書くときの手はよく動いて、頭で考えるより先に手が動くんだけど、今日はなんかダメみたいです。

 

この間、制限時間付きでタイムスリップできるって映画の広告を見た気がするけど、あの時も感じた。確実な違和感。前腕がゾワゾワした。

 

時間はいつも有限なのに、少しも変わらないような気がする日常に飽いている。連続、連続、連続で途切れることのない日々に嘆いてる。

そしてある日ある時何かに強く、二度と消化できない後悔を持つ。「最後だと知っていたならば」。ああ、何をしたんだろうね。

 

喜怒哀楽も苦しみも有限だ。それだけは忘れちゃいけない。

生まれたものはいずれ薄れていって消えてしまう。消えてしまうけれど、それに涙する義務はない。

 

後悔という気持ちをあまり重大に思っていない。迷路をなぞって遊ぶ時に「8番目の角で右じゃなくて左に曲がればもっと早くクリアできたのに!」とかあまり思ったことがない。一々スタートに戻ってやり直したらいい。もしくはどん詰まりからのスタートでいい。道は戻れ。どうしたってクリアのない迷路だったら、仕方ないし砂消しでも買ってコッソリ印刷を消して道を作ろう。

過去をなぞって後悔に浸ることは、迷路をなぞらずにただスタートからゴールを直線で何度も結ぶみたいだ。数え切れないほどの取捨選択の末に今があるんだ、そんなにぶっ飛ばそうとしないでいい。何より風情がない。あなたの人生はその後悔だけじゃなかったはずだ。

 

「最後だとわかっていたらこうしたのに」という本を読んだらおれはどう思うんだろう。タイトルが信条にまったく合わないので、手に取りもしなかった。ていうか本当にそういう内容の本なのかすらわかってない。著者の方、読みもしてないのにすみません。おれは若干流されやすいので、感化されるのが怖いのです。

 

後悔もおれの選択の一部で、それは長い迷路のほんのひと時の選択でしかない。まだゴールは遠いかもしれないし、すぐ近くかもしれない。紙が燃えちゃってもう振り返ることさえできないかもしれない。

足跡は確かにあれど、大切なのは現在地点だ。

その現在地点のために、「最後だとわかっていなかった日」の埋め合わせをするなら応援したい。でも、あんまり悲しいままでいると、悲しいのクセになっちゃいますよ。

 

あの夏とはもう決別してまあまあ経ってる。

死別を経験してから何か変わったことはあったかと聞かれて、記憶力は悪くなったと答えた。上記までのような「過去にこだわらない」という思考が生来のものなのか習得してきたものなのか、死別のショックで起きたものなのかは実はよく分からない。記憶なんて曖昧に薄れてく。おれはその事実を受け容れる。それだけでいいんだ。

おれは時間も多少経過している上に、家族の死を克服するにあたり都合のいい思考だったと思う。でもこれが全てじゃないんだよな。

 

色んなものに救われる人がいる中の、一つの意見です。色んなものを愛していこうな。

とりあえず友達にスタンプでも送ってみて、なんだよって言われて、なんでもないけど元気してる?って、ちょっと笑ってみよう。片方死んだらそんなくだんねーこともできないんだし。

 

だらだら長引きました。手は結局ノってきませんでした。悲しい。せっかく書いたので公開はします。

おわり。

20170723

物が多すぎる机を見つめて、なんでこんなに物があるんだろう?と冷静に不思議な気持ちになる。

手に取ればそれらにあった理由なんかも思い出せるが、物が多い理由はなんだろうか。

 

僕らの思い、軌跡、人生。時間とともに流れ消えていずれ忘れてく物たちをこの場所に留めようと釘を打つみたいに物が増えていく。

よく考えたら別に過去なんてどうでもいい。そう思いながらも「これはあの時あそこに行った時に買ったし」「いつか使うかもしれないし」と言ってただ物は積まれていく。ただ過去が積まれていく。

 

思い出というのは全くおかしなもので、一緒に体感した人とすら多少異なるものだ。それを別の友達に共有しようとなんてすれば、オチでもなければ無意味な話だ。

無意味な筈なのに、親しい友達の経験を聞けば「こいつのことを少し知れた」なんていう不思議な満足感もある。不和が溜まる。

 

 

思うより早く過ぎていく毎日に時々目眩がする。おれがこの不調和に唸りながらキーボードを叩いてる時にみんなは人生をしている。仕事をしているかもしれないし学校に行ってるかもしれない、寝ているかもしれない。命の危険に面しているかもしれない。

身長70センチぐらいのときからよく遊んでいた近所の子供は気付けば同じぐらいの背丈になっていた。日々が過ぎる。日常が回る。目が回る。なんだか悪夢が繰り返されているみたいだ。

 

祖母はボケてる上に持病や暑さで調子が悪そうだったらしい。母さんは不安げにそれを語り、僕はいよいよかぁなんてぼんやり思っている。今日の出会いと別れが最期かもなって、妹が死んでからは誰とも思っている。「それじゃ、またな!」と言う時は半ば祈るような心地だ。おれは生きて話してくれる人間が好きだよ。また会えたらすごく嬉しいよ。出会えたらすごく嬉しいよ。頼むぜ。

 

人と別れる時はこんなにも明確な諦めと願いがあるのに、思い出や経験なんかを物にしてしがみ付くのは何故なのか。

諸行無常の響きが空っぽな諦観に反響している。

もし持ってるものを全部捨てたら、己の人生が無意味だったように思えるのだろう。何も無かった、無駄だったって。物に縋る程度の思い出だからだ。

少し物を捨てよう。もう少し自分らしくしたほうがいい。過去に対し何物にも頼らず、今を誰かに頼ろう。なんとなく今はそのほうが健全だろうなと思う。知識を蓄えよう。やりたいことをやるために、武術の型みたいに、順番を考えなくても自然と語れるぐらいに身につけよう。

 

そういう積み重ねが自分の人生だって言えるようにしよう。今のところ、最低でも、バカみてえな傷跡分だけはおれが生きてた感じあるからさ。大丈夫だ。少し物を捨てよう。

20180710

なんとなくただ頭の中身を垂れ流したいのですがなんとなくただツイッターがそういう場じゃないような気がして怯えていまして、誰かと話したいような気もするんですけど反応が無い限りどうしようもないし大体平日の朝に返事くれる人とかそんないない気もするし、ああどうしよう、だらだら何か言ってみましょうか?

 

生活リズムが整うと生活がかなり整うのはとても分かった。とても心が凪ぐ。誰かのせいにして生活リズムを乱してるとしんどいもんな。

扇風機の風が優しい。この町は暑い。

高温で息ができなくなる東京の夏のほうが好きかもしれない。

この町じゃ溺れそうだ。いつから粘ついた湿度の町に溺れそうになっていたっけ。

 

二年前。

多分二年前。機会があり初めて国外に出ることになった夜。あれ、もう少し前だっけ?まあいいか。

溺れながら汗をかいていた覚えがある。おれは町に、この国に嫌われていてだからこそ外に出られないかもしれないと焦っていた。

故郷なんかに飲み込まれて死んでしまうのではないかと本当に焦っていた。あの時は大学のある町に住んでいたのに。

それほどまでに故郷の引力は強大である気がしている。おれは故郷が大嫌いで大好きなんだろう。こういった複雑さが愛なんだろうか。それとも愛憎のほうが正しい語だろうか。

大切らしい人たちには各々の大切があることを知っておれはその一部じゃないと気付いて去りたい。

 

一夏を関東圏で過ごしたことがある。体が焼け落ちそうでそれが自傷行為みたいな微かな爽快感を伴っていた。

歩を進めろ。足が擦り切れてなくなるまで歩こう。そういう思いを携えながら知らない町で半袖で、ただ歩いていた気がする。目的なんて無かったのだ。いつだって、いずれ死ぬ人生、そうだろ。

 

自殺することそのものはおれの希望じゃなくなった。知らない町の無関心な優しさは希望だ。道を訊いたら教えてくれるんだ。地元じゃ恥ずかしくてgoogle mapしか使えないのに。「他からの優しさ」と思ってるものは存外恥ずかしがらなければ受け取れるのかもしれない。謙虚であることと卑屈であることの兼ね合いを探さなければいけない。

新しい友達。お前らはとっくに大切な人たちがいると思う。だからこそ安心だ。

おれはいつだってその場所から発てる。

古い親戚や友達。おれはあなたたちから去りたい。よく分かってはいないんだけれどただそっとあなたたちから去って関心を持たれたくない。

 

新興じゃない宗教のミサに参加してみたことがある。

おれはこれまでにたくさんの過ちを犯していて、なんとなく神様がいても許してもらえないだろうな、と思っている。

信じたい思いはある。だけどあまりにおれの間違いが多すぎて、信じることができない。0から100まで許されると言われてもおれ自身が間違いである気がして、間違いを許すことと見逃すことは違うと屁理屈をたててしまう。

宗教に向いてない。少し勿体無いな、と思う。

 

落ち着いてきました。おしまい。

故郷への乱文

こちとらもう日付も変わりますし、寝たいんですけど、よろっと頭の情報量がしんどくなってきたので一度文字に起こしてみようと思います。

 

何故故郷に惹かれるのか。何故家族と共にいることが良しとされているのか。

この求心力はなんなのか。おれから見れば、これは殆ど呪いみたいだ。

帰る場所がある、待っている人がいると言えば聞こえは良し。ただそこを終の住み処にしたいのかと言われるとそうでもない?だったらどこで暮らしたい?

ここじゃないどこかで暮らしたい。ここじゃないどこかで生きたい。くそみてえな思い出も輝かしい思い出もそこらじゅうにリマインダーがある町は生きづらい。

ああそれならそこじゃないどこか。ダーツで刺さった先の町や国に行って、そうだな、10年暮らして。町がリマインダーまみれになって。また離れたくなってしまうのかな。

 

愛着の持ち方がイカれてる。なんとなくそんな気はする。

過去に怯えてる。なんだかそんな気もする。

 

帰らなければいけないところと帰るべきところは違う。それならおれはどこに帰ろうか。

帰らなければいけないところは故郷だ。家族のもとだ。

ここがおれの帰るべきところ、と思った場所や人には、それぞれ帰らなければいけない家族がいる。

帰らなければいけないところを受け入れられないと孤独が来る。絶妙な味わいの孤独が来る。それが大きくなると補食されるらしいから気を付けろ。大丈夫、おれたちは一人じゃない。孤独の味見をし合おう。美味しいのもあるかもしんないよ。

 

ここじゃないどこかに生きたい。

くぐもった価値観が高く鳴る瞬間を期待してる。

故郷には甘やかされるばかりで、心臓にラードでもつけられてるような不快感がある。鼓動が重たいんだ、そういう日ばかりなんだ。

徐々に開発が進む物悲しさもどうだっていいんだ。それすら鼓動を圧し殺す。

 

町に変わらないでほしい。変わるぐらいなら出ていきたい。そうして着いた町も誰かにとっては変わらないでほしかった町でおれのように誰かが去った町だ。

よそ者だから許される挙動も、少し悲しい。僕がこの町の生活に馴染むことはできても、所詮はよそ者なのだろうか。そして去るのだろうか。故郷にまで。

 

故郷は、おれの部屋は、泥沼みたいで苦手だ。安心してしまう、おれの荷物の数に気づいてしまうから。

重力井戸から這い出るのは難しい。

 

輪廻とまではいかないんですけど、僕からみて右君からみて左とかを思い出します。

永劫、うねって、右左、人生、いいから

さっさと好きなことやろうか。

 

ああ、日付変わっちゃいました?

おやすみなさい。

 

20180129

性質がどちらか片方に寄っていたら楽だったろうなと思う。例えば「感情的」か、「論理的」かとか。「アウトドア派」か「インドア派」かとか。

己の持つ感情を己の持つ論理で収めようとするから不和が生じるのだと思う。

ハッピーエンドを望むなら、ハッピーエンドの映画だけ観ればいいのに、時たま不穏さが欲しくなってサスペンスなんか見始めて気分を悪くしたりしてる。

 

というより、根が不穏な人間なのだ。たぶん。不穏な種を持って生まれたのに穏当な肥料だけを与えられて育ってきた。もしおれがとても機能していない家族に生まれていたら地方ニュースで取り上げられる程度の極悪人にはなっていたと思う。「極」でもないか。

 

「悪いことをしちゃいけないと知っているからしないのは常識」。そう言われたらそれまでだ。中二乙ならそれまでだ。

たまに何か破壊的な熱を感じるのが真に穏当な人間なんだろうか。人間獣であるからだろうか。真に穏当にいたいおれはそれがとても不安になることがある。

人間誰しも通る不安定さと言うならまあそれでもいい。思春期の不安定さを引きずり倒して今日も生きてる。なんかみんなそんなもんなんじゃないかなという気がしていて、そんでおれはおれのこの不安感もなかったことにしてはいけない気がして一応ブログに書いて整理することを試みている。

 

人間関係をリセットしたいわけじゃなく、突然刃物を持ち出したくなる。誰を切るでも刺すでもない。刃物を持つ自分の存在を許されたいのかもしれない。

インターネットの友達においてはその「刃物」ってのは「言葉」で、傷つけたいわけでもないのに傷つけうる言葉を流してしまうことが最近ある。実際傷つけるかは知らないけど、「傷つけうる」と思いながら流してしまうのが俺にとっては問題だ

落ち込みがちな日が冬の割に少なくて、調子が良いのだと思っていたのだけど、本当に調子が良ければ凶器なんて持ち出さないからな。落ち込んでこそいないけど調子がよくないのだと思う。

「あぁ、そっか」で済むところにもう一撃を加えるフリをするみたいな。寸止めでも相手驚かしちゃうよな。覚えがある人いたらごめんな。

 

人付き合いに対し潔癖すぎるのだろうか。あんまり人付き合いは得意じゃないのだ。一期一会でバイバイばかりだった。

理想像。人付き合いにおける理想像のハードルを下げてあげないとちょっと生きづらそう。ケンカはしてはいけませんと言われて従順に従ってケンカの仕方が分からず殴る前に刃物を持ち出す人間になってる感じかな。それとも非暴力にでも徹してるつもりなのかな。

何にせよ、ケンカはしてはいけませんって人間と人間(個々別々の人間)の存在を許していないんだなと昔気付いておきたかった。親に従わなきゃならないと思ってたし反抗期も起こしたことがないが、あれは自分の存在を許してやれなかったんだなと今となっては思う。反抗期すればよかったな。すれば鬱にならなかったかな。とか変えられない過去はどうでもいいんですけどね。

 

冒頭の話に戻りますが、性質がどちらかの極に偏ってる人は、それはそれなりの苦労や孤独があると思います。すみません。

使い分けることができてはじめて色々適応しやすいのかなとかも思います。

どちらもなあなあにハンパになって、不和が起きてる感じがする自分に緊張してるだけなので悪しからず。優しくなるか非情になるか、せめてもう少し割り切りやすいようにステ振りしたいです。終わりです。

20180123

最近、本という本を最後まで読めた回数が非常に少なかったのだけど、kindleにいれた青空文庫の本やプライム会員無料のやつを読めた。こう言うとまったく購入してないじゃないかと言われそうな世の流れだけどkindleセールのやつも買ったぞ。結局セールかよって思う?確かに…。

 

天気が荒れている。これは特定に至る情報というより全国的な状態で、関東圏の積雪っぷりを見て逆に笑ってしまった。「どうしようもない」、そう感じてしまうと笑うのはいつからのクセだろうか。誰でもそうなんだろうか。威力に屈しているのだろうか。そういえばゲームでうっかり強敵と当たった時も笑ってたよな。状態を認識することへの反抗なのだろうか。

 

3年ほど前に一日一枚描こうと安そうなスケッチブックを買った。1年以内に埋めるつもりだったはずが今も3割程度しか使用してあるページがない。

最初に書いた通り本という本をほとんど読めていなかった。それもまったく半分のページにも至らず大体積んでしまっていた。これも3割程度のところに大体しおりやしおり代わりのレシートが挟まっている。

稀に読めた本があるとそれを何度も読み続けたり、その作者の別の本を探したり、新奇性の少ないことばかりしている。新しい刺激が苦手なのか、文体の好き嫌いが激しいだけか。

3割程度というのは毎回伸び悩みだす(?)進度で、本、スケッチブック、ノート、どれも飽き始める。そういえば子どものころは30分アニメを観ていられなくてそれこそ10分程度で飽きていた。こうやって考えていると地続きな性格にちょっとだけ面白くなる。今日のスケッチブックはただ色を塗って終わった。

 

亜人」という漫画で、「人は変わらない」というセリフがある。肯定も否定もなく、ただ変わらないという事実を言っていたように思う。

本当に変わらないと信じたい時がある。例えば、友達として会って話してくれる人の思いとか、笑顔とか、自分が好きな趣味とか。いつか友達じゃなくなるかも分からん。いつか詩も絵もかく力がなくなるかも分からん。鬱傾向の人は「これまで通り」じゃなくなった自分を憂うことはあると思う。

なんとなく悲観せずにいきたい。友達はどこかで元気にしてるならいいし、かけなくなったものはかけなくなったのだから、かける時まで待つぐらいの。そういう余裕がいい。

 

過去は美化されがちだ。すごかったものとして扱いがちだ。美しく楽しかった過去と、落ち込んでる現在じゃ対比が強すぎてより落ち込んでしまう。「人は変わらない」。積み重ねた色々があるだけだ。これから積み重ねが難しくなっても恐怖しないでいいはずだ。伸び代はまた今度にとっておこう。

何より、大切だからとこれまで何度も会ってきた人や、何度もやってきた習慣が無駄だったわけはない。

こうやってだらだら書いてると、「人は変わらない」ってなんとなく素敵な感じしませんか。冷静なのに温かくていいですよね、このセリフ。

 

前まで寝る前に一気に押し寄せてくる考え事を1200字程度になるまでアウトプットしてたけど、最近は睡眠のことを考えて寝る前にパソコンをしてないので久しぶりのブログでした。あまりまとまりもないけど、楽しみにしてると言われてしまったので下書き保存はやめときます。

それでは体調に気をつけて。最近の無限ループ本は中原中也の詩集です。以上です。