否定の話
分からないことを理解実行するように強いられる。
それは歩けない人に走れっていうようなものだって言った人がいた。
分からないことを強いられるのは”意思や経験を否定されること”であるようにも感じた。
思考のパターンが違う人に自分の思考パターンは押し付けられない。
己の歯車は己にしか回せない。
世界は己じゃない。
それは誰も悪くない。そうあるだけ。はまることもある。そうあるだけ。
「でも」「けど」「だって」を会話に何度も使っちゃったら話は押し付けになってくる。
「そもそも」論を持ち出してもアウトだ。
大学に入るときに兄貴にとある処世術を教えてもらった。
飲み会で先輩がこれ美味いから食えって言ってきたら、一度は先輩が食べてくださいと辞退して、いいから食ってみなよって言われたらありがとうございますと言って食えと言われた。すごく体育会系だけどまあ気にしないでくれ。
でも先輩になってから、二度辞退されたらもう勧めるなとも言われた。
一度は勧めてみるのもいい。それは経験者の権利だ。
それこそ受け取るも受け取らないも相手次第だ。勧めるといいと思う。
だけど2回目の本当の拒否を喰らったらもう脈無しだ。その子にはもうそれを勧めるな。
その(例として珍味とする)珍味を食べる勇気はないのかもしれない。
食べたことがあって味が嫌いなのかもしれない。感染症になったことがあって嫌いなのかもしれない。
食べられないものを無理に押し付けない。好きなものでもがっつかない。
それが先輩に好かれるコツで後輩にも好かれるコツだって教えてもらった。
これを考え方に当てはめるのは無理があるのかなあ。どう思う?
パソコンは答えてくれないから勝手に押し問答に当てはめてみるよ!
それを兄貴が教えてくれた雰囲気バージョンと失敗した例を言ってみよー!
↓↓↓先輩後輩付き合いバージョン
Aさん「xを選んだら間違いないよ」
Bさん「いや先輩がx使ってください。僕はyにします」
Aさん「でもxの効果は経験しておくべきだよ」
Bさん「僕実はyのこうこうこういうところが好きなので」
Aさん「そうか、理由も経験もあるならyでいいか」
↑↑↑
↓↓↓ごり押しバージョン
Aさん「xを選んだら間違いないよ」
Bさん「いや先輩がx使ってください。僕はyにします」
Aさん「でもxの効果は経験しておくべきだよ」
Bさん「僕実はyのこうこうこういうところが好きなので」
Aさん「だってyよりxのが社会的にも認められてるよ」
Bさん「そもそもなんでxなんですか?僕はyがいいって言ってるでしょ」
Aさん「だけどyよりxの方が優れて(以下省略)」
↑↑↑
どう思うだろう。
個人的にはどっちの場合でも2人とも間違ってないと思う。
Aさんはxを勧めたい善意があってBさんはyを選びたい意思があっただけ。
それだけの齟齬が雪だるま式に膨れ上がることもある。
健全な人付き合いには傷つき傷つけられ仲良くなってくのが基本なのだろうけど、少なくともおれは傷つけることが怖い。傷つくのはいいよ、防御設定MAXで話してるから。
傷つけることにも傷つくことにも大らかな図太い人はこの界隈には少ないんじゃなかろうか。
いくら良いことだと自分が思ってても、経験や価値感は違うことは覚えておきたい。下手をすれば相打ちの勝負になってしまう。
すべてをなくしてからじゃ遅いからね。
歩み寄っていけるといいなと思う。
もう一度言うけど誰も悪くない。徒党を組むと人は止まりづらい。
善意は時々ナイフになる。少し運が悪かっただけ。
またみんな、ほどほどにでもたのしく、仲良くしてくれたらいいなあ。
今日の話題は本当に ※個人の見解です があってる。
叩かれる準備オッケー。ごめんな!