身体の話
今日何してきたかはまあいいや。面白くない。
基本的にノリノリで行く人間なので何故か友人と上着の交換をして謎に抱き合うとかしてましたけど贅沢を言うなら今みたいな頭は重いのに無駄に力を持て余してるときにしっかり抱きしめてみたいですね
— ハジ (@waterChroma) 2017年2月23日
帰ってから当然のように無力感と疲労感が遊びに来た。やつらが苦手で緊張すると身体が強張ってくる。
どうせなら外に居続けてしまえばその感覚と縁を切れるって言うなら是非とも完全にパブリックな人間になりたい。でもそううまくはいかない。
うまくいかないならこの緊張をどう発散するかだけど、クッションを抱きしめるとか布団を殴るとか、明確じゃない反応(骨のなさかな?)が苦手なので例えば未払いの請求書を眺める。ろうそくに火をつける。電子タバコを吸うなどする。いずれも頭は鉛のようですぐには戻ってこれない。
痺れるような筋肉のひきつりはどこにもやれなくて蒸発するまで待つしかない。
ツイートを引っ張ってきたが、こういうやり場のない感覚を生き物に触れて発散できたらどんなにいいだろうか。発想が利己的で嫌だけど弱ってるときにどうこう言っても何もできねえから、発想ぐらい垂れ流すよ。
人間てすげえよ。温かくて柔らかい。冷え性の人で冷たくても柔らかいんだ。
初めて死体を触ったのは父親の身体だった。朝6時に病床で静かに死んだ身体は、朝10時に病院に着いたとき段々温度を失っていた。顔も手ももうほとんど冷たいけど、首の後ろとか、まだ温かいんだよと母が教えてくれて触れた。本当に温かかった。
父の手はまだ曲げることができたが文字通り力なくて、これが人間だったのかと腑に落ちなかった。
温度が残っていても死んだ人はどこか硬くてシリコンみたいだなと思った。
ボロ泣きして騒がないように気をつけてできるだけ静かに泣いた。認知症の父方の祖母が到着したとき泣きながら父の身体を触りまくってた。遺体を綺麗にするから少し待合室に行けと言う医師の言葉を聞かないから、仲のいいほうである俺が祖母に声をかけたら「親が死んだと言うのになんて薄情な子だ。感情もないのか」という旨のことを言われた。
妹は「治すために転院したんじゃないの、毎日お見舞い行けないのに我慢したんだよ、なんで死んじゃったの」と俺ができなかったボロ泣きの大騒ぎをしていた。
こんなに正しく悲しめる子なら大丈夫なんじゃないか、きっと生きていけると、軽視した自分を恨むと同時に、やっぱりおれもつらかったし悲しかったし何が間違ってたんだろうと思う。
納骨室での兄と妹の姿は助け合って生きるそれではなかったのか。
生きてると温度があるし動きがある。声とか、その人の体臭もある。人格もある。
身体は柔らかくて中に骨や筋肉が詰まってる。圧倒的な知らない経験が重なってる。
その複雑さを優しさと勘違いしたままでいいから、つらい時にそう言って誰か優しい人を抱きしめてみたい。許してほしい。
明らかに家族以外の人を作るべきだよね。俺は薄情すぎて誰とも需要と供給が合わない気がするよ。
一人と分かってるのにこういうとき都合よく寂しがり風情を出すなあ。嫌だなあ。
未だに父の死を悼めることにもボロ泣きしながらタイピングして気付いた。そのうち書く。
セルフカウンセリング。セルフ曝露療法。危険ですので医師の管理の下やりましょう。