死ぬことへの欲求の話
時折死ぬという行動がものすごく甘美なものに感じてきて欲求が溢れそうになることがある。
とはいえ自分は社会的で理性的な動物であるから、ものすごくお腹が空いているときに定食屋に行っても隣の人に先に出された料理には手を伸ばさない。いいな~!はよ食べたいな~!って思うだけだ。
死亡することへの願望が、ごく自然な空腹感のような、欲求としての形でたまに挨拶しに来る。コイツとは早く絶交したい。
願望が現れたら目を閉じて頭の中で何度だって自殺する。外出先なら死ぬパターンを考える。意外とマルチタスクあるやんと最近判明したので自転車を漕いでいても色んな想像を出来てしまっていることに気付いた。
傷跡を握るとか拳を作るとかをして願望をやりすごす。タチの悪い事にこれがすごくキモチいい。背徳感と快感が腕の髄を走り続ける。同時に嫌悪感も走るが微々たるもので思考を止めるまでに至れない。
この感覚が腕から体幹にまで通って心臓を撫でたら理性はポンコツになるのだろうか。
痛いのは耐えれるけれど苦しいのは嫌だ。高校の頃の自殺未遂(のつもりだった)ODでもう懲りた。
刹那的な生活でいたくて快楽主義の生活はしたくない。どうせなら先がある上での快楽を求めていたい。ご飯を食べるとおいしいね。ぐっすりたっぷり寝れるとすっきりするよね。自殺から生還すると苦しいしヘロヘロだし無力感に襲われてたね。自殺を完遂してしまうと誰も喜ぶ人なんていなかったね。
空腹感が峠を越えると無くなるように、死亡することへの願望も峠を越えればあんしんあんぜん。寝不足だとよく来るね。
希死念慮と書かなかったのは果たしてこれが希死念慮であるか不安になったからだ。
死んだほうがいいとか人生が辛いとか感じてしまうわけではなく、ただ欲求としてあるだけだ。快楽として死に依存しているのではないか。
それともやはり腕を切りたいだけなのか。
三大欲求は円グラフのようなもので、全てのバランスを取れてるときが一番いいと聞いたことがある。
食と眠りと性に丁度良く依存できると人は丁度良く生きられるということだろうと解釈している。
高校卒業頃まで、性欲があまり掴めていなかったので、依存し損ねてしまったのかもしれない。代理の柱としての自傷行為への欲求が生まれてしまった。そこに付随して「よりキモチいいこと」として「死亡すること」という最上級がある気がする。
つまりきっとこのバランス感覚は一生もの。柱を壊したらおれもヤバイかもしれない。それは怖いから絶交したいとか言わないで仲良くやってくしかない。ていうか壊せるかすら分からないや。
死亡するという甘い欲求が溢れるときは我慢しきれずに死ぬときになる。
どうにかもっと甘い依存先を見つけて、丁度良く生きれたら素敵なのだろうな。