※個人の見解です

思考の整理や自分語り

郷愁の話

どこかに帰りたいと家でも思う。帰る場所は今ブログを打ってるここであるはずだけど明確に心臓から飛び出る針を感じる。喜びは炭酸水みたいで怒りは蒸気。悲しみは溶けかけのつらら、楽しみは膨張。郷愁は針の形状だと思う。

 

これはたぶん死にたさの類型なんだろう。そういえば妹もたまに言ってたや。そのときも分かるわーって笑って答えてたなおれ。こういう後悔が加速するときすごく帰りたくなるんです。

エモい、という単語を最近ちょいちょい見かけますが、ぼくが死ぬほどエモくなるときは大体公園です。もう手に入らないものが欲しくなるのだろうなと考えました。

幸福そうに遊ぶ家族連れ。春の日曜日の昼過ぎとか。土曜日だとなんとなく余裕のありそうな親御さんたちも日曜は明日仕事だからとか夕方早めに帰りたそうにするんですよ、そんで子供はまだ遊び足りないんですよ。どっちも声を荒げるというより自分のやりたいことを持ちながらも互いを理解しようとする気持ちは若干あって。温かくてまだ日は高くて空は綺麗な水色してて。もう一回だけとか言ってターザンロープ掴んでやったけどやっぱもっかいやりたくなって。まだ帰りたくなくて。

騒ぎ立てる徒党を組んだガキは絡んでくるから得意じゃないけど、そういう、まだコミュニティが家族しかないガキを見てるとなんだか悲しい。しかもコミュニティが(外見だけかもしれないけど)順当に潤滑に回ってるんですよ。なんですかあの幸福な家族。田舎に何件かあったりする宗教だってびっくりだ。あれが幸福と健全の形だと思うよ。価値は人によるものだと思うが俺にとっては間違いなく幸福だ。胸が張り裂けそうという言葉がぴったりだ。

 

父が病床についてから、あぁもう俺は大人で、父さんはたぶんもう昼過ぎの公園にも庭先にも出れないんだろうなって景色がすごく遠くなった。どこかに突き落とされたみたいに。

夕日が差し込んだ病室で無理矢理日に身体を当てる父の姿は庭先にしがみつこうとしているようで、家族みんな精一杯笑っていたから笑ったけど異常に胸が痛んだ記憶がある。父に関してはスゲー辛かった記憶もあるのに死は人を美化してしまうから不思議だ。まあ思い出でまで辛くなりたくないからこれが人間の忘れ方なのかもしれない。生き方なのかもしれない。攻撃性も痛みも現在だけで十分だ。

 

幼少期に母や兄と行っていた公園に先日行ったら雑草がぼうぼうで、忘れられた記憶のように退廃してた。あそこに残ってる文明は塗りなおされたらしい遊具ぐらいだ。

今はもう身体が重くて登れなさそうなやせた木はまだあったが、隣の桜はすごく枝が減っているように見えた。一人平日の昼間にブランコを漕ぐ無職をしていたらポップなピンク色の自転車に乗った子どもとその親が来たよ。もう帰りたくなったから帰ったよ。

帰りたい場所は幸福な記憶なんだと思う。永劫帰ることは叶わないから、楽しかった記憶や、安心するだろうという本能を頼りに家族を形成していくのかなとか考えたよ。

俺は帰れない。帰りたいけど帰れない。またもや自己矛盾を作ってしまったけどね、健全な幸福の先に行くよ僕は。郷愁ぐらい飛び越えてやるぜ。

おやすみなさい。