※個人の見解です

思考の整理や自分語り

身近な話

自分には起きる筈が無い。人は大変だなとテレビを観て同情してる。

なんだって間近にある筈だ。キーボードを叩いてる今心臓発作でも起きないとも限らない。脳梗塞だってありうる。急に魂だけあちらの世界に行って廃人化なんてファンタジーなのもありえないとは言い切れない。自分の話だけではなく、一階に降りたら母が倒れてるとか、欠伸をしてるうちに兄貴が車で事故るとか、そういうことだってある。どこかの誰かの癌細胞は転移し続ける。

無限の可能性を恐れて「自分には起きる筈が無い」と同情するのかもしれない。高みの見物だ。楽なもんだろう。

認知症になる原因は死への恐怖だ、とどこかで見かけた。真偽の程は分からないのだけど、すごくしっくり来た。考えた人はすごい。言いえて妙だ。

 

「自分だけは大丈夫という確信をこの時代に持てるんなら相当な権力者か馬鹿だ」

これはamazarashiのメーデーメーデーという曲の歌詞。だがしかし相当な権力者にだって等しく死は訪れる。死って優しい!権力があっても大丈夫じゃない時は大丈夫じゃない。

 

中古の漫画を買おうとして、急に「なんのために?」と疑問符が浮かんでしまった。

いずれ死ぬ。死んだらおれが集めたものもこの家も意味はなくなる。なんのために?いつ死ぬかも分からないのに?

ウツの訪れというより、唐突に現世に冷めたような視線を得てしまった。醒めたとも書ける。その悟りモドキが不愉快だったから漫画は買った。

ブラックジャックのまだ持ってない巻が安かったから買ったんですけど。一話に一人以上ずつ大変な人たちがいるわけじゃないですか。それを俺は娯楽として消費するんですよ。反芻もしますけど消費なんですよ。何人もの苦しみや喜びや絶望や希望を読むんです。

他人の人生に同情するために金銭を消費する。時間を浪費する。人生を濃密にする必要経費だと言えればオーケー。

なんのために?

あ、空しい。

 

テレビの健康番組でこの人の血が悪いから改善しなきゃとか、長生きのための運動とかを言う。

死んだらそれまでで。1秒後に死ぬかも分からないのに、何をそう面白おかしく不安を煽って語るのだろう。

 

当事者になる覚悟が足りないと思う。

常に俺は人生の当事者だ。俺の人生の当事者だ。そうあるべきだ。もし戦争が始まったら性別違和の人は兵役に行くのか工場で作業になるのかとかくだらないことをクソ真面目に考える人生の当事者だ。

今この身には脳の不調が心臓の不調が内臓の不調があるかもしれない。今この自堕落な瞬間に母が死ぬかもしれなくて病魔は萌芽しているかもしれなくて兄が死ぬかもしれなくて病が跋扈してるかもしれなくて犬は何も身体の不調を伝えられないだけで倒れているかもしれない。みんな死ぬよ。無駄になるよ。

明日は我が身だ。次はお前だ。同時にあんただ。そうして来たんだ。

すぐに当事者になる。いくら心配したってなるようにしかならないよ。考えて変わらないことで気を揉まなくたっていい。どこかそれなりにいい位置に集束できるって。安心していい。死ぬほどつらい思いをしたことあっても今これを読めてるんだからさ。

ただ覚悟はする。いつまでも生きていくのだと思わない。「平均寿命までで考えるとあと60年も生きるのか」とか、「じいちゃんは61で死んだからそこまでか」とか考えないでいい。そういう絶望はする必要もない。明日死ぬつもりで生きろ。永遠に生きるつもりで学べ。これはガンジーだったっけか。

ケガも病魔も死もすぐそこだ。安心して、全力で走って食って寝よう。

なんだって収束するさ。大丈夫。

 

食欲が死んでるけど食ったらお腹壊しました。早く現世に酔いたいです。おしまい。