故妹の友達が来てる話
今故妹氏の友達だった子が遊びに来てくれてるそうですが、僕は他者が居る時リビングにもキッチンにも行けないので詩を書こうと思いました。しかし一ヶ月以上ブログを書いてないことに気付いたので書きます。開設から半年経ってる通知メールはちょっと前に来てたよ。わーい。
故人の友が遊びにきてくれることについて。
故人がいいやつだったという証拠である。勉強もできたし中学までは友達がたくさんいた。高校に入って人間関係に躓くというおれと同じルートを辿ってしまったようだが、自殺後(もっとも自殺とは公表していないが)も友達が遊びに来てくれるなんてすごいやつだ。
さて、この遊びに来るこれ、一体どういう、何の意味があるんですかね?
本人はいないのに。よく分からん。
妹のキャラクターだけではなく母のキャラクターも影響はしていると思う。もし遊びに来ても無愛想なおばさんしか居なかったら来たくないだろう。やたら明るい母だからこそ来てくれるのかもしれない。
だったらこれは妹の友達が来てくれるというより母の友達が来てくれるって言ったほうが近いのか?二十歳にも満たないやつらもうちの母の支えになろうと頑張ってくれてるのだろうか。だとしたらすごいしだとしたらもうちょっと歓迎しなきゃ。あんまり友達の家に意味なく遊びに行くって経験をしてないから意味がないと人は来ないって感じがしちゃってるんだろうね。これは確実にコミュ障の弊害。意味なくやるを心がけないとすぐできなくなる。
「別に誰が来ててもリビングに居ていいよ」と母は言う。確かにそうだよなと思うけどおれは面倒くさい。
人って多面的な生きものとか球体みたいになりたいってアホみたいに抽象的な話を前にしてました。
球体になりたいけどまあ全然なれてないわけですよ。ずっとニュートラルな球体でいたいけど、家族や親しい友達に会うときと初対面とか友達の友達ぐらいの人と会うときはやっぱ違って、後者のときは緊張してカカッと面が発生する。
この取り繕った面のことを少し恥じている。多面的にならざるを得ないのが恥ずかしい。求めてる完全体が理想的すぎる。
なんだろうね、これは。心の壁を作ってるときに、内側から観察してる人がいるというのがイヤなのかもしれない。
逆に完全に知らない人しかいないところに行けば無双だ。一人で飲み屋も行くし、なんなら隣のソロ客に話しかける。暇なら。暇そうなら。
無双してるときは何も守るものがないです。失うものや守りたいものがない時が楽と思います。
他者からの評価を失いたくない守りたいと思ってしまうからこうなるんだな。
勝手に納得しました。大事にしているものを自覚して捨てるまでをやれるといいな。
好きな漫画でも「大事なのは執着しないこと」って言ってた。委ねてしまおう。
まだ妹の友達帰らないです。おしまい。