※個人の見解です

思考の整理や自分語り

20180129

性質がどちらか片方に寄っていたら楽だったろうなと思う。例えば「感情的」か、「論理的」かとか。「アウトドア派」か「インドア派」かとか。

己の持つ感情を己の持つ論理で収めようとするから不和が生じるのだと思う。

ハッピーエンドを望むなら、ハッピーエンドの映画だけ観ればいいのに、時たま不穏さが欲しくなってサスペンスなんか見始めて気分を悪くしたりしてる。

 

というより、根が不穏な人間なのだ。たぶん。不穏な種を持って生まれたのに穏当な肥料だけを与えられて育ってきた。もしおれがとても機能していない家族に生まれていたら地方ニュースで取り上げられる程度の極悪人にはなっていたと思う。「極」でもないか。

 

「悪いことをしちゃいけないと知っているからしないのは常識」。そう言われたらそれまでだ。中二乙ならそれまでだ。

たまに何か破壊的な熱を感じるのが真に穏当な人間なんだろうか。人間獣であるからだろうか。真に穏当にいたいおれはそれがとても不安になることがある。

人間誰しも通る不安定さと言うならまあそれでもいい。思春期の不安定さを引きずり倒して今日も生きてる。なんかみんなそんなもんなんじゃないかなという気がしていて、そんでおれはおれのこの不安感もなかったことにしてはいけない気がして一応ブログに書いて整理することを試みている。

 

人間関係をリセットしたいわけじゃなく、突然刃物を持ち出したくなる。誰を切るでも刺すでもない。刃物を持つ自分の存在を許されたいのかもしれない。

インターネットの友達においてはその「刃物」ってのは「言葉」で、傷つけたいわけでもないのに傷つけうる言葉を流してしまうことが最近ある。実際傷つけるかは知らないけど、「傷つけうる」と思いながら流してしまうのが俺にとっては問題だ

落ち込みがちな日が冬の割に少なくて、調子が良いのだと思っていたのだけど、本当に調子が良ければ凶器なんて持ち出さないからな。落ち込んでこそいないけど調子がよくないのだと思う。

「あぁ、そっか」で済むところにもう一撃を加えるフリをするみたいな。寸止めでも相手驚かしちゃうよな。覚えがある人いたらごめんな。

 

人付き合いに対し潔癖すぎるのだろうか。あんまり人付き合いは得意じゃないのだ。一期一会でバイバイばかりだった。

理想像。人付き合いにおける理想像のハードルを下げてあげないとちょっと生きづらそう。ケンカはしてはいけませんと言われて従順に従ってケンカの仕方が分からず殴る前に刃物を持ち出す人間になってる感じかな。それとも非暴力にでも徹してるつもりなのかな。

何にせよ、ケンカはしてはいけませんって人間と人間(個々別々の人間)の存在を許していないんだなと昔気付いておきたかった。親に従わなきゃならないと思ってたし反抗期も起こしたことがないが、あれは自分の存在を許してやれなかったんだなと今となっては思う。反抗期すればよかったな。すれば鬱にならなかったかな。とか変えられない過去はどうでもいいんですけどね。

 

冒頭の話に戻りますが、性質がどちらかの極に偏ってる人は、それはそれなりの苦労や孤独があると思います。すみません。

使い分けることができてはじめて色々適応しやすいのかなとかも思います。

どちらもなあなあにハンパになって、不和が起きてる感じがする自分に緊張してるだけなので悪しからず。優しくなるか非情になるか、せめてもう少し割り切りやすいようにステ振りしたいです。終わりです。