※個人の見解です

思考の整理や自分語り

20170723

物が多すぎる机を見つめて、なんでこんなに物があるんだろう?と冷静に不思議な気持ちになる。

手に取ればそれらにあった理由なんかも思い出せるが、物が多い理由はなんだろうか。

 

僕らの思い、軌跡、人生。時間とともに流れ消えていずれ忘れてく物たちをこの場所に留めようと釘を打つみたいに物が増えていく。

よく考えたら別に過去なんてどうでもいい。そう思いながらも「これはあの時あそこに行った時に買ったし」「いつか使うかもしれないし」と言ってただ物は積まれていく。ただ過去が積まれていく。

 

思い出というのは全くおかしなもので、一緒に体感した人とすら多少異なるものだ。それを別の友達に共有しようとなんてすれば、オチでもなければ無意味な話だ。

無意味な筈なのに、親しい友達の経験を聞けば「こいつのことを少し知れた」なんていう不思議な満足感もある。不和が溜まる。

 

 

思うより早く過ぎていく毎日に時々目眩がする。おれがこの不調和に唸りながらキーボードを叩いてる時にみんなは人生をしている。仕事をしているかもしれないし学校に行ってるかもしれない、寝ているかもしれない。命の危険に面しているかもしれない。

身長70センチぐらいのときからよく遊んでいた近所の子供は気付けば同じぐらいの背丈になっていた。日々が過ぎる。日常が回る。目が回る。なんだか悪夢が繰り返されているみたいだ。

 

祖母はボケてる上に持病や暑さで調子が悪そうだったらしい。母さんは不安げにそれを語り、僕はいよいよかぁなんてぼんやり思っている。今日の出会いと別れが最期かもなって、妹が死んでからは誰とも思っている。「それじゃ、またな!」と言う時は半ば祈るような心地だ。おれは生きて話してくれる人間が好きだよ。また会えたらすごく嬉しいよ。出会えたらすごく嬉しいよ。頼むぜ。

 

人と別れる時はこんなにも明確な諦めと願いがあるのに、思い出や経験なんかを物にしてしがみ付くのは何故なのか。

諸行無常の響きが空っぽな諦観に反響している。

もし持ってるものを全部捨てたら、己の人生が無意味だったように思えるのだろう。何も無かった、無駄だったって。物に縋る程度の思い出だからだ。

少し物を捨てよう。もう少し自分らしくしたほうがいい。過去に対し何物にも頼らず、今を誰かに頼ろう。なんとなく今はそのほうが健全だろうなと思う。知識を蓄えよう。やりたいことをやるために、武術の型みたいに、順番を考えなくても自然と語れるぐらいに身につけよう。

 

そういう積み重ねが自分の人生だって言えるようにしよう。今のところ、最低でも、バカみてえな傷跡分だけはおれが生きてた感じあるからさ。大丈夫だ。少し物を捨てよう。