※個人の見解です

思考の整理や自分語り

20180816

「最後だと知っていたならば」。

何をするでしょう。何と言うでしょう。

 

最後だと知らなかったからこその今を、どう生きればいいんだろう。

 

悲しい空しいというよりも違和感がすごくて何か書き始めようと思ったのですが、まだ違和感が明瞭ではないようでキーボードが進みません。手が重い。いつもブログを書くときの手はよく動いて、頭で考えるより先に手が動くんだけど、今日はなんかダメみたいです。

 

この間、制限時間付きでタイムスリップできるって映画の広告を見た気がするけど、あの時も感じた。確実な違和感。前腕がゾワゾワした。

 

時間はいつも有限なのに、少しも変わらないような気がする日常に飽いている。連続、連続、連続で途切れることのない日々に嘆いてる。

そしてある日ある時何かに強く、二度と消化できない後悔を持つ。「最後だと知っていたならば」。ああ、何をしたんだろうね。

 

喜怒哀楽も苦しみも有限だ。それだけは忘れちゃいけない。

生まれたものはいずれ薄れていって消えてしまう。消えてしまうけれど、それに涙する義務はない。

 

後悔という気持ちをあまり重大に思っていない。迷路をなぞって遊ぶ時に「8番目の角で右じゃなくて左に曲がればもっと早くクリアできたのに!」とかあまり思ったことがない。一々スタートに戻ってやり直したらいい。もしくはどん詰まりからのスタートでいい。道は戻れ。どうしたってクリアのない迷路だったら、仕方ないし砂消しでも買ってコッソリ印刷を消して道を作ろう。

過去をなぞって後悔に浸ることは、迷路をなぞらずにただスタートからゴールを直線で何度も結ぶみたいだ。数え切れないほどの取捨選択の末に今があるんだ、そんなにぶっ飛ばそうとしないでいい。何より風情がない。あなたの人生はその後悔だけじゃなかったはずだ。

 

「最後だとわかっていたらこうしたのに」という本を読んだらおれはどう思うんだろう。タイトルが信条にまったく合わないので、手に取りもしなかった。ていうか本当にそういう内容の本なのかすらわかってない。著者の方、読みもしてないのにすみません。おれは若干流されやすいので、感化されるのが怖いのです。

 

後悔もおれの選択の一部で、それは長い迷路のほんのひと時の選択でしかない。まだゴールは遠いかもしれないし、すぐ近くかもしれない。紙が燃えちゃってもう振り返ることさえできないかもしれない。

足跡は確かにあれど、大切なのは現在地点だ。

その現在地点のために、「最後だとわかっていなかった日」の埋め合わせをするなら応援したい。でも、あんまり悲しいままでいると、悲しいのクセになっちゃいますよ。

 

あの夏とはもう決別してまあまあ経ってる。

死別を経験してから何か変わったことはあったかと聞かれて、記憶力は悪くなったと答えた。上記までのような「過去にこだわらない」という思考が生来のものなのか習得してきたものなのか、死別のショックで起きたものなのかは実はよく分からない。記憶なんて曖昧に薄れてく。おれはその事実を受け容れる。それだけでいいんだ。

おれは時間も多少経過している上に、家族の死を克服するにあたり都合のいい思考だったと思う。でもこれが全てじゃないんだよな。

 

色んなものに救われる人がいる中の、一つの意見です。色んなものを愛していこうな。

とりあえず友達にスタンプでも送ってみて、なんだよって言われて、なんでもないけど元気してる?って、ちょっと笑ってみよう。片方死んだらそんなくだんねーこともできないんだし。

 

だらだら長引きました。手は結局ノってきませんでした。悲しい。せっかく書いたので公開はします。

おわり。