20170409
物事を考え出す前に言葉が途切れる。無理矢理文章にしてみようと必死で今文字を打ってみてる。夜なんだから寝ればいいんだけどさ。
しりとりで新しい言葉が浮かばないときみたいなもどかしさがある。整列した正しい語にならない。
る、る、るーびっくきゅーぶは言った、るーまにあも言った、る、るあ、るい、るう、とか続けてる感覚。ルアーも類もルーも実は単語になってることに気付いてない。たぶん5文字以上縛りとかだ。
さっき(というか今も)考えてるのは、世界が、世界は、世界を、世界に、とか、一文字変えて丁度いい何かにならないかとぐるぐるし続けてる。何がしたいのか何に至りたいのかも分からない。
人間性を落とし切れないことはしんどい。諦め切れないことはしんどい。
とはいえ人間性のない人間はつまらないし諦めちまった人間もくだらない。
意思を持っていて活動することができる、というのが人間の条件であるように思ってる。おれが出来てないから。
「何をやりたい、何になりたい?この人のことどう思うよ?」
答えれたら人間になれるかなあって考え出すと、答えるためには自己の人格が必要で、現状を諦めずにいることが必要になる。より高みを目指すことというか。
早死にする気満載で全部諦めていたから、難しい。うっすらとした苦痛がある。
「人を選ぶことが必要かもしれない」という旨のツイートをちょっと前にした。
なんだか、あるグループ存在していることを許されたまでではなく、認めてもらえた気がして、もう少し人間らしくなってみてもいいのではないかと思ったからだ。
ある人と話していて、人間って本音と建前とか裏とか表とかあっても人付き合い続けれるものなのかと驚いた。ここで書いたことあるっけ、純真極まりなかったおれは小学校の頃に聞いた(あるクラスメイトに対する)陰口で人間関係のほとんどが瓦解した。
さっきまで3人で仲良く話してたのに、1人が抜けた途端に「あいつウザいよね」とかそういうことを耳打ちされて、信じてた足場の底が抜けた。こんなことになるぐらいなら仲良くもならなくていいと心底思った。
それでもあの人らはコミュニケーションを続けてた。悪意と善意のバランスを取れるうちは続くものらしい。(もしかしたら悪意ですらなかったという可能性もある。)
ということに最近気付いたから、ツイートした。あのツイートには悪意も善意もない。誰かハブるぞって宣言でもない。ただ子ども時代に通過するべきだった気付きを得たっていう驚きの記録だ。
まあ、スタンスはどうせ変わらない。来るもの拒まず去るもの追わず。常に大きく自由であれ、だ。
入り込むほうを最近は減らそうとしている。今あるつながりぐらいで十分だ。それが途絶えてしまうのも仕方がない。だけど、できたら大事にしたいなと思う。
意外とだらだら続けれました。おしまい。