生きてる話
ここ一週間ほど滅茶苦茶な量の動く物体を見てる。特定の他者と関わる前はただの不規則に動く物体であったり、コンテンツとして消費したりするのに、話しだして仲良くなればなるほど物体は人間になる。不思議だ。
おれの主観から見て人間になる以前の物体たちが大量に動いているのは気にしないふりをしてもやはり少し怖い。群像が倒れこんでくる。群像が雪崩れ込んでくる。それぞれの意思を持って。どこか決められた道筋で。どこか決められた平均値の上を。いつも変わらないルートで。どうせ終わる日常で。うへぇ。
故郷にいると心臓が重たくなる。実際心臓が重いなんてことはないだろうからイメージだろう。
楽しくやれる。母のテンションに合わせて。たまに兄貴が遊びにきてくれて。犬はかわいくて。ネットサーフィンしかしないパソコンを開いてぐだぐだ毎日を過ごしてる。それでも自然は豊かだし、感性を刺激されるタイミングはたくさんあるはずなのに感覚が鈍磨していく。
生き抜こうとしなくても生かされてるのだから当然だ。
自転車を全力で漕ぐとき、実はかなり生命の危機を感じる。
何度か真夏に自転車を全力で漕いで軽度の熱中症に陥ったことがある。暑くて、普段は汗をかかないのに汗で体がびしょ濡れで急に腹を壊した。トイレに入っても座ってられなくてそれより暑くて気持ち悪くて正常な判断が失われていく。この暑いまま死ぬのか戻れないのかと何度か思ったことがある。なのに、全力で漕ぐ。
自転車はノーヘルだけど道の安全を確認できれば平気で時速40kmぐらい出す。繰り返すがノーヘルだ。アホか。
一瞬運転をミスったら死んじまう高揚感を喉から耳にかけてためこむのが気持ちいい。
死や恐怖に駆られてやっと心臓が動くんだ。こうやって書いてる今は故郷を大事にしない背徳感で生きてるって感じがする。
生きてるって言ってみろって文を見たことがある。あまりその人の言葉には詳しくないけど。
今おれは自主的に生きてるのか?受動的になってやいないか?生きてるって言ってみろって。
そのだるい靄を針に変えよう。
友達の家に居候してる。
でも友達は出張中(?)だから擬似的一人暮らしだ。
飯もないからスーパーに行って、極弱い離人感に挨拶しながら買うものを考える。スーパーの情報量は人を殺しにかかってると思う。
弱い離人感を殺すのに必死になって、スーパー出てしばらくすると、生きてるって感じがする。
足のポンプはまだ健在。息はあがりやすくなったがまあまだどうにかなる。
命の危険がある場所って楽しいですねって感じで。おしまい。