一遺族としての話
またしても自死について適当な強者論を書いてしまった気がするので、親族の自死に適応できていない方のために先にグリーフケアのページチラっと載せておきますね。喪失を冷静な文章として読み、自分にも当てはめてみて、「苦しかったり無感情になったりするのは自分ひとりじゃないと感じる」ことは喪失の許容においていい足がかりになると思います。
業の感覚を忘れることこそ、正しい死の克服だと思う。
— ハジ (@waterChroma) 2017年12月2日
業を忘れずに生き続けることは自己満足の自罰行為である気はしてる。
喪失を許容することを「忘れてしまった」と恐れないで大丈夫。人はその状況で生き抜くようにできている。
死を背負い続けなくていいということに気付いていない真面目で誠実な人がたまに居る。bioに自死遺族であることを書いている人にその割合は多いように思う。(なんとなくですけどね。)
おれは生きる選択のために精一杯だから、死を背負い続けるつもりはない。
一人暮らしをしている期間の中で死んだからだろうか。毎年3,4回しか会わなかった家族が死んでしまったからと喪失を嘆き続けるのは何か違う気がした。
もう会えることはないけど、おれはおれで楽しい程度に生きようと思う。毎年3,4回だった遭遇数が未来まで完全に断絶してゼロになっただけ。そっちはそっちで喜怒哀楽してもらって、おれはおれで喜怒哀楽するだけ。
今居る現状を楽しんだり倒したりしなきゃね。死んだのはおれじゃなかったから。
自責も罪悪感もおれのもので故人のためにあるわけじゃない。
罪悪の負債を払わなければ。どこへ?払う相手もない。だったら解消していけば問題ないよ。おれたちは十分苦しんできたじゃないか。それだけでもう十分だよ。たまには許されよう。誰も怒らない。
悲しみ続けることがいいって教義も念仏を唱えようって教義も写真に語りかけようって教義もあるのだろう。自由にしていい。これ!ってなったものがさいきょーなのだと思う。
故人に恥じない行動を、とは思うから自分はこれからも怪しい系のものに嵌って大金を落とすつもりはない。
未だに話するとたまに涙出ることもあるけど、身内が死んだからって泣き続けなきゃいけない決まりはない。泣かなくなったからと言って繋がりが薄かったわけじゃない。
とっても優しいおじいちゃんが亡くなってその子であるおとうさんがずっと泣き続けることはあまり無いと思う。年をとればそのうち死ぬのは摂理だし、ある程度納得できるからだ。
若者が自死した場合は、若いのにこんな突然死ぬわけがないと思ってなかなか納得ができない。用意された死ではないと感じてしまう。そこで自責して自罰する。
年寄りだって若者だってペットだって、いずれみんな死ぬ。喪失は自然な反応だ。その中で生きてる。
確かに惜しい人を亡くした、だけど今生きてる己を大切にしていい。
生きてる人は楽しんでいい。故人だって結果に満足しているのかもしれない。ていうか後悔していようが話せないんだから知るか。「言ってもらえなきゃ本当のことが分からない」って点においては死者も生者もおんなじだ。
絆が弱かったんだとか悲しまないで大丈夫。悲しんでもいいけど。お前の絆と優しさは間違ってなかったと思うよ。「あの時こうしていれば」は「その時そうしなかった」ってだけだ。
自分に起こる喜怒哀楽を否定せずに。
自分が想像しただけの故人に踊らされないように。
時間もある程度の薬にはなりますが、早いことそれなりに、楽しくやっていきたいところですよね。
終わり。