※個人の見解です

思考の整理や自分語り

20180710

なんとなくただ頭の中身を垂れ流したいのですがなんとなくただツイッターがそういう場じゃないような気がして怯えていまして、誰かと話したいような気もするんですけど反応が無い限りどうしようもないし大体平日の朝に返事くれる人とかそんないない気もするし、ああどうしよう、だらだら何か言ってみましょうか?

 

生活リズムが整うと生活がかなり整うのはとても分かった。とても心が凪ぐ。誰かのせいにして生活リズムを乱してるとしんどいもんな。

扇風機の風が優しい。この町は暑い。

高温で息ができなくなる東京の夏のほうが好きかもしれない。

この町じゃ溺れそうだ。いつから粘ついた湿度の町に溺れそうになっていたっけ。

 

二年前。

多分二年前。機会があり初めて国外に出ることになった夜。あれ、もう少し前だっけ?まあいいか。

溺れながら汗をかいていた覚えがある。おれは町に、この国に嫌われていてだからこそ外に出られないかもしれないと焦っていた。

故郷なんかに飲み込まれて死んでしまうのではないかと本当に焦っていた。あの時は大学のある町に住んでいたのに。

それほどまでに故郷の引力は強大である気がしている。おれは故郷が大嫌いで大好きなんだろう。こういった複雑さが愛なんだろうか。それとも愛憎のほうが正しい語だろうか。

大切らしい人たちには各々の大切があることを知っておれはその一部じゃないと気付いて去りたい。

 

一夏を関東圏で過ごしたことがある。体が焼け落ちそうでそれが自傷行為みたいな微かな爽快感を伴っていた。

歩を進めろ。足が擦り切れてなくなるまで歩こう。そういう思いを携えながら知らない町で半袖で、ただ歩いていた気がする。目的なんて無かったのだ。いつだって、いずれ死ぬ人生、そうだろ。

 

自殺することそのものはおれの希望じゃなくなった。知らない町の無関心な優しさは希望だ。道を訊いたら教えてくれるんだ。地元じゃ恥ずかしくてgoogle mapしか使えないのに。「他からの優しさ」と思ってるものは存外恥ずかしがらなければ受け取れるのかもしれない。謙虚であることと卑屈であることの兼ね合いを探さなければいけない。

新しい友達。お前らはとっくに大切な人たちがいると思う。だからこそ安心だ。

おれはいつだってその場所から発てる。

古い親戚や友達。おれはあなたたちから去りたい。よく分かってはいないんだけれどただそっとあなたたちから去って関心を持たれたくない。

 

新興じゃない宗教のミサに参加してみたことがある。

おれはこれまでにたくさんの過ちを犯していて、なんとなく神様がいても許してもらえないだろうな、と思っている。

信じたい思いはある。だけどあまりにおれの間違いが多すぎて、信じることができない。0から100まで許されると言われてもおれ自身が間違いである気がして、間違いを許すことと見逃すことは違うと屁理屈をたててしまう。

宗教に向いてない。少し勿体無いな、と思う。

 

落ち着いてきました。おしまい。