※個人の見解です

思考の整理や自分語り

20191030

愛していこうな、生きてること、大嫌いだから、憎んじゃうから、いつかどうでもよくなるように愛していこうな。空気にまでなったら関心を持たないで済むよ。在って当然になるまでぐちゃぐちゃに愛していこうな。それが殺し方。

こんにちは。10月ももう終わりですね。なんとか生きてる人のほうが多いとおれは嬉しいな。

最近はその「なんとか生きる」がなぜか強烈にブレてしまう時があり、セントジョーンズワートを飲み始めた。思い込む力が強いので、「これで大丈夫、これで大丈夫」と唱えてたら割と大丈夫になっている。2週間は飲んで様子を見ろとある人に言われたが飲み始め1週間でこれだ。果たしていいのか悪いのか。とりあえず悪い宗教やトンデモ医療などにハマってうっかり人に広めないようにはしたい。何かにハマってそれを信じるのは自由だけれど、人に推奨することには責任がある。「良かれと思って」では済ますべきではない。一人ひとりに対して広めるか否か熟慮する必要がある。

 

Twitterの別アカウントで色々なスタンスの人をフォローしている。「Aさんはさすがわかっている」というツイートと「Aさんは気が狂ってしまったのか?」というツイートが同時に見れる状態だったり、ワクチン否定派の攻撃的な言葉に医師がデータを淡々と諭していたりする。これはとても健康に悪い。万人にとっての正しさなどないと突きつけられて考えの地盤がぐらぐら揺れる。たぶんそれを刺激として摂取している。刺激への依存症とはおおよそ不健全なものです。刺激は用法容量を守って正しく摂取しましょう。

 

昔は秋や冬が好きだった。寒さで体が凝縮されて一個体である感覚を強く感じられて好きだった。今や寒さはおれの身体を傷つけるものとなってしまっていて悲しい。おれはまだあの寒い晴れの日、除雪された歩道を歩いて必死に熱を発していた感覚を覚えているよ。凍ってしまわないようにどんどん燃やせって。自分で書いた詩をよく読み返していたから忘れずに済んでいる純度の高い感覚。詩は病める魂のための芸術なのか、ただその筆者の記憶の純粋培養なのか?自分で書いた詩の感覚は好きだ。人の書いた詩の「おれの内にない記憶」を辿るのも好きだ。何がどうなんだ。

 

夏の暑さは自我を拡散させる。思考が空気に溶けだしてしまっている気がしてそれが嫌いだった。昨今の殺人的な熱さはもはや鈍痛という域で、半ばその中を生きる苦行を楽しんでいた。今はもう、冬の鋭い痛みに耐えられなくなったんだ。

そういえば自傷行為の鋭い痛みももうとても怖くて、セントジョーンズワートを飲みだす直前の気が狂いそうな悲しみと怒りの衝動に喘ぎながら刃物をあてたら怖すぎてぼろぼろに泣き出してしまった。腕を殴るは稀にとはいえ未だしているのにその差はなに。やはり鋭さの。

2015年ぐらいからの、「刃物を用いての自傷をしてない」記録は先日去りましたが、まあ生きてるしまたやりたいとはまったく思わないのでよしとします。あまりに薄くてもう治ったし。がんばれセントジョーンズワート。負けるなセントジョーンズワート

 

頑張って生きていきます。なんとか生きていきます。みんなもなんとか生きていこうね。

おわり。