「またね」の話
いつか死のうとした人たちと出会えるのがすごく愛おしい。
いつか死に掛けた人たちとまだ話せるのがすごく愛おしい。
何かしら死に掛ける日々で話してくれるのがすごく愛おしい。
今も死にたい人たちが話してくれるのがすごく愛おしい。
死にたい人が理由を探してくれるのがすごく愛おしい。
死にたかった俺を拒まないでくれる人たちがすごく愛おしい。
歩いたら歩くだけだけ死ぬ確率は上がるって歌ったのは神聖かまってちゃんだっけか。
だけどどこかに帰ってきてくれるのがありがたい。
生きてる限り、誰だっていつ死ぬか分からない。
時々、一人で眠ろうとしている最中に心臓が止まるんじゃないかと不安になる。
誰も入ってこないゲストハウスの個室でもし何か起きたらと怖かった。
しばらく掲示板やSNSで見てない人の言葉をまた見ることができるか分からなくて怖い。
また見たいと心の底から思っている。
高校生の時は毎日気分が死に近すぎて「またね」と言えなかった。
大学生になってからも「また」会う自信がなくてなかなか言えなかった。
今は出来るだけ「また話そう」とか、「いついつにしよう」とか言う。
また話したいから。遊びたいから。
生きていて欲しいと思うから。
自死を否定したいわけではない。遺族として辛かったけれど否定はしないよ。
ただ生きてることはすごい。何度も死にかけて、家族の病死と自死に触れて、やっと分かったぜ。なかなか遅かった。
明日遊ぶ約束をつけて明日まででも笑顔の延命をしたかった。
全ての中立でありたい。
遭難した先の山小屋みたいな、砂漠にあった水溜りみたいな。
十分休んだら出て行ったらいい。どう使ったって気にすんな。水ぐらいいずれ湧くだろうから。
でも良かったら、そのうちまた顔を見せてくれ。
生命は最期に死んでしまうから、その前にどうか笑ってほしい。
そういう気持ちで生きている。