※個人の見解です

思考の整理や自分語り

20210215

久しぶりにパソコンを開いたらトラックパッドイカれているのかすげー使いにくい。こんばんは。

なんだか別に出てくるほど感傷的な気持ちであるわけでもなく疫病だとか地震だとかシンプルに土台を揺るがす事態が多すぎて最近はめまいすらする。三寒四温?今日は寒いですね。今週はまた雪らしい。

 

雪にもう疲れたとも思うが、結局雪に帰ってくるとも思う。小さいころの、サボテン型の登るしかできない遊具の傍でただ降雪を真下から見ていた時や、鍵を忘れたから凍えながら雪だるまを作った時や、更地を汚す罪悪感の塊のような新築家屋の裏でスキー用ゴーグルをしながらただ空を見つめていた時の音を思い出す。音が食われていく音。結局ここに帰ってくるんだろうな。知らないけど。

 

継続的な関係を作れないのが苦しい。何に冷めるとかも無いはずなのに、楽しんでたはずのやり取りから外れていくのがしんどい。ただただしんどい。こうしたくなかったはずなのに。こんなくだらない癖で何人と連絡を取らなくなったろう。起爆させたい。酒でも飲もう。やらなきゃいけないタスクみたいに時折無駄にしんどくてCPUも圧迫される。酒でも飲もう、ね。

 

身近には疫病患者はまだ出ていなくて何故か恐怖感だけを成長させている。地震もそうだ。おれは生活を脅かされるほど被災をしていない。なのに変なトラウマがある。きっと恐怖感を増強させるツイートを見すぎたんじゃないか。共感性の無駄遣い。おれは健康的に生きていられるのだろうか。ああ。死にたいくせに。

 

最近お茶がうまい。と言いながら今は酒を飲んでる。背徳に塗れながら酒を飲めるのは19までとアル中で肝臓か膵臓か何か臓器をやってからだろう。背徳。規律から外れろ。そこに快感を見いだせ、なんて無理あるよ。

おれが規律から外れることができるのはどこだ?たぶん、本当はそこら中。心の無意識のリミッター、ぶち壊してはいけないやつが、硬い人と壊れやすい人がいる。心そのものは割れ物の癖にリミッターだけは頑丈だ。面倒くさい。あるいは、とっくにガタガタに壊れているのに元が複雑すぎて絡まってるだけかも。ありうる。めんど。

 

生活への不安。「生きる」「活動」って残酷な字面だ。

知り合いは地震の影響で通販が向こう都合でキャンセルにされたらしい。人生儚い。天災一つで予定は狂うし予定なんてのも天からすればお笑い種。

今更になって同調圧力に近い存在に負けて防災グッズを買い始めた。「物を買う」という行為に出血するかのような泣き笑いを感じてそこに依存したらダメだよって優しく語りかけてる。おれを助けれるの、たぶんおれだけ。少なくとも今は。ゆるくダメな今は。でもそう「自分を救えるのは自分だけ」って歌ってた海外のアーティストは死んじゃった。どうなんだ、おれはおれを救えるのか?

 

1000文字超えてました。

乱文ではありましたが、おやすみなさい。

20200810

時々なぜかぼんやりと不安になる。それなりに充実しているはずだ。なんとか楽しくやってると自分を誤魔化す毎日。

続かない仕事とか、そこで言われていたあまりに粗雑な呪いとか、将来のこととか。

自分は誰で、何の為に生活をしようとするのか。苦しいのならここにしがみついて生きる必要なんかあるのか。ドロップアウトして地獄に落ちてもそこから更に離脱する手段がわからない。「そんなんじゃどこでやっていけるはずもねえ」。地元から出たこともねえあんたに言われても説得力なんかねえ。

そのはずなのにただひたすら不安だ。どこにいったってどうしようもない。それはなんだか昔から自分自身にかけ続けている呪詛と似てる気がするからかもしれない。

早く変わりたい、変えたい。前向きになろうとそう思いながら習慣みたいに酒をあおって「だったら早く死ななきゃな」、なんてお粗末な酔い方だろう。

 

なんとなく息が苦しい気がしてぼんやりとした孤独感が傍にいる。断崖絶壁に座ってる。

自殺のイメージ、自傷のイメージ。そんなことなら抗えるけれど、意識や思考が動かない時が怖い。死への憧れを持つことや身体的な痛みを求めていたことは衝動であって、快楽に限りなく近いとも思う。

 

 

 

 

なんか書き出したらスッキリするかなって思ったけど全然ダメでした。

いつもは1000文字超えるまで書くんですけど、推敲なんかも短いながら多少はするんですけど、もうやめて寝ます。逃げます。おやすみなさい。

 

 

 

 

 

20200211

忘れたっていいよ。

さいころ、ばあちゃんちで飼ってた高齢の犬が死んじゃったって朝に連絡が来た日は「今日は小学校行かない!」なんて叫びだすぐらい泣いた。朝から大泣きした。絶対にあれは本当に悲しかったし辛かった。

だけど、今落ち着いて思い出そうとしてみてもその日がどんな時間割だったかなんて思い出せない。何をして遊んだかなんかも思い出せない。幼少期の生活の密度では出来事が遠くなるのが早かったのだと思う。

その時やその時期は本当に悲しくても、遠くなってしまえば「それ以降」を楽しんで生きていた。そういうものなんだろうな、と思う。

 

大人になれば、新しい物だらけの小学生の密度と違って日々が淡々と過ぎ去る。その割に大きな変化の出来事だけが極最近のように感じられる。

昔はカップ麺の3分をタイマーセットして、まだできないまだできないと何度も飛び跳ねながら確認していたけど、最近じゃ3分のタイマーをセットして一呼吸で「え、もうできた!?」と慌てて食べる準備を始めてる。その癖1年前に始めた仕事を「1年も経ったっけ!?」なんて驚いたりもする。時間感覚がバグってる。大きな出来事だけが常に「最近」に居座るままなのだ。

 

大きな出来事はえてして、自分の中の最新のトップニュースになりやすい。だけれど大きかった出来事を最新に据えておくことは義務ではない。

日々は流れて、色々な出来事が起きる。

悲劇も喜劇もインターネットじゃ濁流のように押し寄せてる。それに気付いて拾い上げると、いつの間にやらトップニュースランキングが変わっている。

変わることは怖いことだ。だけど変化はそこにあるだけで、あなたはそれを認識しているだけで、変化というものはあなたを能動的に傷つけたりはしない。あなたを傷つけるのは、案外、「こうあるべきだ」と願う自分自身なのかもしれない。

 

おれのとこは不幸にも人生の転機に近い地点で父が病気で死に、また人生の転機に近い地点で妹が死んだ。幸運だったことは、あまりに「印象的な年」になるべきだった年だったせいでそれらがすんなりと「過去」になったことだった。

ついでに、今も好きなバンドのCDを初めて買った年なんかも絡んで、死んでしまった彼らは遠い昔だ。おれは昨日何を食ったかすらろくに思い出せないけど、そんな時系列だけは思い出せる。

 

今となっては死んだ彼らの声もよく思い出せないのに、それでも好きなバンドのCDを聴いている。思い出せないからこそ穴埋めをしているのかもしれない。

自責から来た罪は少しぐらい清算できているのでしょうか、それもよくわからない。

それでもまあ、大切な人が居なくなって、忘れかけて、本当は憎かったと気付くことは悪ではないし、本当にいい人だったと思いなおすことは偽善ではない。たぶん自然な人間の情緒です。人間きっとそんなもんです。美化しちゃうのも人間だけどね。

忘れても大丈夫。集まったにぎやかな罪悪感たちには運動会でもしてもらって解散してもらおう。

 

 

生活の密度に気付いていこう。あの時悲しかったのは絶対に確かだよ。今はそんなに悲しくなくなったって、あの時は絶対に悲しかった。それは本当に間違いじゃない。

なんか、おれももうすぐ死んじゃうのかなってワケもなく不安になるんです。やっぱりせめて後悔の少ないようにおれを生きなきゃならねえなって悲しくなりながらエンジンをかけるんです。へらへらしてた癖に急に泣きそうな顔して、たまに本当に泣いたりもして、そうやってどうにか走って生きましょう。

20200127

死にたいという言葉は、辛さや悲しみ、やり場のない怒り、疲れなんかを総括して表現できたつもりになるから危険だ。口をついて出てくる。いつか引きずりこまれそうで怖い。見えない敵だ。

居場所、救い、共同体。ざっくりとして力のある魅力的な言葉で、それに焦がれることは仕方がない。見えない敵に怯えるならば見えない力に頼って倒したくもなる。とはいえ理想が大きすぎると、ちょっとヤバい。

 

過度な理想化は自傷行為に当たると思う。

例えば、「テストの点が良い」「運動が得意だ」「勉強ができる」「スタイルが良い」「顔が良い」とか、ちょっと憧れるところが誰しもありそうです。理想像ですよね。そんな人いたらすげえな~って思います。

あいつはすげえな~って尊敬できる余裕があればいいのだけれど、過度な理想化というのは、「テストの点が良くなければ生きていてはいけない」「運動で勝てないから死ぬしかない」「勉強ができないと親に見捨てられる」「スタイルが良くないから生きる価値ない」「顔が悪いから人前に出てはいけない」とかの強迫観念に繋がる。最後二つは想像なんですけど、あとのは高校時代にすごく発生させてた焦りです。

 

例えば、いわゆる結婚できない人。「年収はこれぐらいで、顔がよくて、スラッとしてて、話が合って、趣味に寛容で、身長何センチぐらいで、etc」

理想を現実に起こすと信じて語ってる分には頑張れと思うけど、いい人いませんかと言われたら知らん頑張れとなる。理想が大きすぎて現実と吊りあっていないのだ。

 

居場所と救いの話に戻ろう。

居場所にどういう能力を求めてる?救いにどういう能力を求めてる?

居場所は居ることが許されてる外部で、救いは自分の中に根付くものだと思う。この村を守る為に!って戦うのか、自分が殺されない為に戦うのか。みたいな。

 

居場所は居ていいとされる場所だ。友達や家族と楽しく話しても、そこに留まる時間よりも日々の生活の方が長いはずだ。

救いというのは今つらいから欲しくなるのだろう。金がないだとか医療費がないだとか、具体的で現実的につらいことは福祉に相談すれば解決に向かえることが多い。

しかし救いを求めてたどり着いた居場所が、そんな気軽に劇薬をくれて精神状態が劇的に変わるわけはない。居場所は救いではない。わずかで確かな楽しさと自己肯定感を作ることができる場所だ。

わずかな楽しさを積み上げていけば居場所は救いに変わりうるけど、人間関係は大変だし過去の楽しさは曖昧だ。居場所そのものを絶対的な救いだと思うことは、たぶん結構難しい。

 

個人的には救いを他人に求めては勿体無いと思っている。

プラネテス(漫画)の二巻にこういうセリフがある。

「全部オレのもんだ。孤独も、苦痛も、不安も、後悔も。もったいなくてタナベになんかにやれるかってんだよ」

結局この主人公は最後丸くなっていく。あの尖り方が好きだったから残念ではあったけど、それもまた他者たるキャラクターの在り方なのでね、ドンマイ。他者に希望を持ちすぎてはつらくなるよ。

 

 

 

 

 

これ、実はしばらく前の下書きをちょっと手入れしただけなんですよ。

今、本当に救いを他者に求めたらもったいないのか考えています。

でもなあ。たぶん誰か決まった一人だけや一つだけに救いを求めることはおれできないな。

日々何百と人間を見ていても、誰か手をつなぎたい人なんかいなかったし深く知りたい人もいなかった。「本当は人を愛せるのでは」という救いを未だに夢見ていることぐらいはわかった。なんとなく空しい。

またね。

20191030

愛していこうな、生きてること、大嫌いだから、憎んじゃうから、いつかどうでもよくなるように愛していこうな。空気にまでなったら関心を持たないで済むよ。在って当然になるまでぐちゃぐちゃに愛していこうな。それが殺し方。

こんにちは。10月ももう終わりですね。なんとか生きてる人のほうが多いとおれは嬉しいな。

最近はその「なんとか生きる」がなぜか強烈にブレてしまう時があり、セントジョーンズワートを飲み始めた。思い込む力が強いので、「これで大丈夫、これで大丈夫」と唱えてたら割と大丈夫になっている。2週間は飲んで様子を見ろとある人に言われたが飲み始め1週間でこれだ。果たしていいのか悪いのか。とりあえず悪い宗教やトンデモ医療などにハマってうっかり人に広めないようにはしたい。何かにハマってそれを信じるのは自由だけれど、人に推奨することには責任がある。「良かれと思って」では済ますべきではない。一人ひとりに対して広めるか否か熟慮する必要がある。

 

Twitterの別アカウントで色々なスタンスの人をフォローしている。「Aさんはさすがわかっている」というツイートと「Aさんは気が狂ってしまったのか?」というツイートが同時に見れる状態だったり、ワクチン否定派の攻撃的な言葉に医師がデータを淡々と諭していたりする。これはとても健康に悪い。万人にとっての正しさなどないと突きつけられて考えの地盤がぐらぐら揺れる。たぶんそれを刺激として摂取している。刺激への依存症とはおおよそ不健全なものです。刺激は用法容量を守って正しく摂取しましょう。

 

昔は秋や冬が好きだった。寒さで体が凝縮されて一個体である感覚を強く感じられて好きだった。今や寒さはおれの身体を傷つけるものとなってしまっていて悲しい。おれはまだあの寒い晴れの日、除雪された歩道を歩いて必死に熱を発していた感覚を覚えているよ。凍ってしまわないようにどんどん燃やせって。自分で書いた詩をよく読み返していたから忘れずに済んでいる純度の高い感覚。詩は病める魂のための芸術なのか、ただその筆者の記憶の純粋培養なのか?自分で書いた詩の感覚は好きだ。人の書いた詩の「おれの内にない記憶」を辿るのも好きだ。何がどうなんだ。

 

夏の暑さは自我を拡散させる。思考が空気に溶けだしてしまっている気がしてそれが嫌いだった。昨今の殺人的な熱さはもはや鈍痛という域で、半ばその中を生きる苦行を楽しんでいた。今はもう、冬の鋭い痛みに耐えられなくなったんだ。

そういえば自傷行為の鋭い痛みももうとても怖くて、セントジョーンズワートを飲みだす直前の気が狂いそうな悲しみと怒りの衝動に喘ぎながら刃物をあてたら怖すぎてぼろぼろに泣き出してしまった。腕を殴るは稀にとはいえ未だしているのにその差はなに。やはり鋭さの。

2015年ぐらいからの、「刃物を用いての自傷をしてない」記録は先日去りましたが、まあ生きてるしまたやりたいとはまったく思わないのでよしとします。あまりに薄くてもう治ったし。がんばれセントジョーンズワート。負けるなセントジョーンズワート

 

頑張って生きていきます。なんとか生きていきます。みんなもなんとか生きていこうね。

おわり。

きょうだいは何人いるの?って話

どうも、最近調子が悪いです。おれの調子の悪さは生来か生得か、何にせよ性格の問題なのでもう仕方がないです。「これは癖だから治らないんだ」って本当かな。ハジです。

更新したら読んでくれる方々にどれぐらい自死遺族や、離婚に伴いきょうだいと別れて会っていない人がいるのかわかりませんが、先日、初めましての人に家族構成聞かれても困るよね~ってDMいただきました。話題にしてもいいですか?って許可は頂いています。そういうわけで、そういう話です。

ちなみに6月頃に「明日気分が合えば書きます」と言って下書き半分で止まっていました。覚えてはいたんですけどまとまらなくて。これは調子ではなく怠惰だと思いますので、反省します。

 

大前提として僕の妹は死んでいます。確かに見てしまいました。骨もあの長い箸できちんと拾いましたし、葬儀屋さんは骨の粉までちりとりみたいなものでとって骨壺に入れてくれました。

初めましての方が当たり障りのない会話の種として「きょうだいはいるの?」って聞いてきます。その時皆さんどう応えるのでしょうか?

僕、面倒くさくていつも「兄がいます」とだけ答えます。 そうすると「じゃあ二人きょうだいなんだね~」と言われるので、「そんな感じですね~」と雑な返答をします。そうするとお兄さんは何やってるのとか話が流れるので少し答えて、「そちらのごきょうだいは?」と聞ければ完了です。もうこの話題は終わり。

 

新しく出会った人たちと話している間にきょうだいの話になって、僕は前述のように雑に答えたけど、次に振られた人が「兄貴がいたけど2年前に死にました」と言って、僕は完全に息が詰まった。

グループでの会話だったのでリーダー格の話題を振っていた人が悲し気な顔で聞いた。「なんで死んだか聞いて大丈夫?」「うん、シンプルに首吊り自殺でした。鬱でね」と答えていた。頭から血の気が引く、ああどうしよう、何か言わなきゃ、なんて焦ってる30秒の間に気付けば話題は自殺率や精神病の問題に移り、そこから更にくだらない話に飛び、2年前に自殺したその人の兄貴にはその後触れることはなかった。

正直、憧れた。いることを隠さないけど特段語りもしない会話。なんだかそれがなりたい付き合い方だなと思った。

 

兄だけ居る、と答えることの欠点は、自然に「この新しい人とは深く付き合うことはない」と壁を張っていることだと思う。嘘の整合性を取り続けることができるほどおれは記憶力がよくなくて、いずれ去るからとあぐらをかいている。あるいは事実を言葉にできるほど感情を呑み込めていないのかもしれない。意外と。

妹が居たと言ったところで、話の流れで「ああそれ妹も好きだったお菓子だな」とかを言えない物悲しい気持ちはきっと存在するままなのだと思う。でもこれよく考えると別に「それ兄も好きな漫画なんですよ」とか、割と新しくできた知り合いに普通に言わないよね。ただ話の流れに邪魔だから言わない。そういう選択をしているということはたぶん、おれは単に自分で「妹が居たが、自殺で死んだこと」をタブー視しているのだと思う。

 

そのまま自分が送ったDMを一部転載すると、

「僕らには本当のことを教える義務もありません。意外と他人は他人で重い過去や思い出を持ってることもあります。確かに居て死んだと誰かに主張したいのか、自分の心の内に住んでくれていればいいのか。きっと僕たち次第です。」

とある。おれは心の内に住んでくれていれば妹が居たことを(現実で新しく会う人に)主張する必要はないと思っていたけど、たぶん心の内に強く強く閉じ込めようとしてしまっている。存在の否定。確かにそいつが生まれた時から共に生きてきたはずの人間を、現実世界から否定している。だから息苦しいのかもしれない。

 

たぶんこれは死の受容がどうのこうのとか、他人なんかお前のこと全然気にしてないよとか、そういう話というよりも、「妹が現実にかつて居たことをおれは許せるのか」という話なのだと思います。

「兄がいて、妹もいたんですけどそっちは若いうちに亡くなりました。そちらのごきょうだいは?」

そうやって軽く居たことを許していこうと思います。居たには居たんだからね。心の内に閉じ込めて、禁忌にまですることないよな。

居たことは隠さないでいいけど、語る必要もない。新しく目標になった、亡霊との付き合い方です。

 

 

・・・

居たことは隠さず、語りもせずとしても、傷つくこともある。

先日70代ぐらいの老人と初対面で話す機会があり、父は肺癌で早くに死んだと言ったら「認知症で10年15年と嫌われながら生きるよりも癌とかで半年ぐらいで死にたいからそれ理想の死に方!」と笑いながら言われて、そんなに好きでもなかった父のことなのに衰弱していく様や暑い病室や生活での不安感を思い出して泣きそうになってしまった。そんな日もあるね。

最近柳田邦夫の「わが息子・脳死の11日 犠牲」を読み、細かな病室感覚の描写に完全に揺れてしまったせいだと思う。何度もお見舞いに行った末に亡くなった人がいる人は読まない方がいい気がする。キツかった。しんどくなりたい人は読んだらいいと思います。

20190319

なめらかに動く。日本語のタイピングだったらまったくキーボードを見ずともいける。考えたことを言葉にして文字として打ち込むのは気持ちがいい。数字は見ないと無理。記号も見ないとミスる。だけどなめらかに動く。

先日「まあまあ速いでしょ?」なんていいながら人差し指だけでカチッ…カチッ…とタイピングをする人を見た。速さの平均値はこれまでの人生で見てきたものになるのだろうか。大昔にタイピングゲームをやりすぎた僕はなんだか残念で笑ってしまった。秒間1.5key以下はヒドイっすよ、なんて思ったりして。

笑ってしまったとはいえ常識というものもそういうもので、これまでの経験に依拠した全ての基準が自分の中にある。でも経験というものがマスメディアやインターネットの影響でぼやけてしまっている気がする。

例えば学校で100メートル走を12秒で走る人がいればすごいって言えればいいのに、9秒じゃないと世界記録には並ばないね、なんて斜に構えているような現実味の薄さ。

冷笑して悟ったフリしてんなよ。さっさと目覚めないといけないね。

 

常識の呪いに未だに囚われている。無重力にでも行けと言うのか。

何が一番フルスイングでおれの常識や固定観念をぶっ壊してくれるのか、恋焦がれるような気持ちでいます。書いてみて思いましたが、どうにも受け身ですね。とりあえず未来は僕らの手の中って、実感していくべきかもしれない。

 

最近よくビールを飲んでいる。特に深い意味もないのだけれど、金を稼ぐと使うことができるのだと知ったからだと思う。アホみたいだけど本当にそんな感じです。金の運用を知らないんですよね。

アルコールは一日の中の限られた時間しか摂取できないしニコチンを摂取できればよかったのに。そんなに長生きしたいわけでもないけど肺癌家系だし、病気で弱って死にたいわけでもない。今はまだ頑張って生きてるので。

 

雑談力の本を買って読んだ。知ってるわバカ!!って案件が非常に多い。前書きの刺さりっぷりはひどかったけれど。

意味がないことこそが雑談であるならば、意味がないことを意味としようとすれば話せるようにはなってきた気はする。馬鹿笑い、雰囲気で笑って、悲しそうな顔もできて。一応そういう中身がないことは得意ではあるんですよね。

でも、Aって情報を受け取って次に話すときにまたAって情報はなんですかと聞いてしまうことが怖いのは相変わらずです。雑談ではこれも覚えてなくていいよってことやと思ってたら突然「ちょっとした雑談を次の時に覚えられていると気持ちがいいです!」みたいな筆者の意見が入ってきて無理だな~って諦めかけたりしてます。

まあ思ったより人間雑だよね。大丈夫大丈夫。おおらかにいこうぜ。

中身がないことしたくないだなんて、何か物事をやりだしてから言えってんだ。

 

今も大して中身はないのに書きだして、伝えたいこともないまま終わる感じです。

そんな感じのだるい日々です。元気にいきましょう。