20200211
忘れたっていいよ。
小さいころ、ばあちゃんちで飼ってた高齢の犬が死んじゃったって朝に連絡が来た日は「今日は小学校行かない!」なんて叫びだすぐらい泣いた。朝から大泣きした。絶対にあれは本当に悲しかったし辛かった。
だけど、今落ち着いて思い出そうとしてみてもその日がどんな時間割だったかなんて思い出せない。何をして遊んだかなんかも思い出せない。幼少期の生活の密度では出来事が遠くなるのが早かったのだと思う。
その時やその時期は本当に悲しくても、遠くなってしまえば「それ以降」を楽しんで生きていた。そういうものなんだろうな、と思う。
大人になれば、新しい物だらけの小学生の密度と違って日々が淡々と過ぎ去る。その割に大きな変化の出来事だけが極最近のように感じられる。
昔はカップ麺の3分をタイマーセットして、まだできないまだできないと何度も飛び跳ねながら確認していたけど、最近じゃ3分のタイマーをセットして一呼吸で「え、もうできた!?」と慌てて食べる準備を始めてる。その癖1年前に始めた仕事を「1年も経ったっけ!?」なんて驚いたりもする。時間感覚がバグってる。大きな出来事だけが常に「最近」に居座るままなのだ。
大きな出来事はえてして、自分の中の最新のトップニュースになりやすい。だけれど大きかった出来事を最新に据えておくことは義務ではない。
日々は流れて、色々な出来事が起きる。
悲劇も喜劇もインターネットじゃ濁流のように押し寄せてる。それに気付いて拾い上げると、いつの間にやらトップニュースランキングが変わっている。
変わることは怖いことだ。だけど変化はそこにあるだけで、あなたはそれを認識しているだけで、変化というものはあなたを能動的に傷つけたりはしない。あなたを傷つけるのは、案外、「こうあるべきだ」と願う自分自身なのかもしれない。
おれのとこは不幸にも人生の転機に近い地点で父が病気で死に、また人生の転機に近い地点で妹が死んだ。幸運だったことは、あまりに「印象的な年」になるべきだった年だったせいでそれらがすんなりと「過去」になったことだった。
ついでに、今も好きなバンドのCDを初めて買った年なんかも絡んで、死んでしまった彼らは遠い昔だ。おれは昨日何を食ったかすらろくに思い出せないけど、そんな時系列だけは思い出せる。
今となっては死んだ彼らの声もよく思い出せないのに、それでも好きなバンドのCDを聴いている。思い出せないからこそ穴埋めをしているのかもしれない。
自責から来た罪は少しぐらい清算できているのでしょうか、それもよくわからない。
それでもまあ、大切な人が居なくなって、忘れかけて、本当は憎かったと気付くことは悪ではないし、本当にいい人だったと思いなおすことは偽善ではない。たぶん自然な人間の情緒です。人間きっとそんなもんです。美化しちゃうのも人間だけどね。
忘れても大丈夫。集まったにぎやかな罪悪感たちには運動会でもしてもらって解散してもらおう。
生活の密度に気付いていこう。あの時悲しかったのは絶対に確かだよ。今はそんなに悲しくなくなったって、あの時は絶対に悲しかった。それは本当に間違いじゃない。
なんか、おれももうすぐ死んじゃうのかなってワケもなく不安になるんです。やっぱりせめて後悔の少ないようにおれを生きなきゃならねえなって悲しくなりながらエンジンをかけるんです。へらへらしてた癖に急に泣きそうな顔して、たまに本当に泣いたりもして、そうやってどうにか走って生きましょう。