20200127
死にたいという言葉は、辛さや悲しみ、やり場のない怒り、疲れなんかを総括して表現できたつもりになるから危険だ。口をついて出てくる。いつか引きずりこまれそうで怖い。見えない敵だ。
居場所、救い、共同体。ざっくりとして力のある魅力的な言葉で、それに焦がれることは仕方がない。見えない敵に怯えるならば見えない力に頼って倒したくもなる。とはいえ理想が大きすぎると、ちょっとヤバい。
過度な理想化は自傷行為に当たると思う。
例えば、「テストの点が良い」「運動が得意だ」「勉強ができる」「スタイルが良い」「顔が良い」とか、ちょっと憧れるところが誰しもありそうです。理想像ですよね。そんな人いたらすげえな~って思います。
あいつはすげえな~って尊敬できる余裕があればいいのだけれど、過度な理想化というのは、「テストの点が良くなければ生きていてはいけない」「運動で勝てないから死ぬしかない」「勉強ができないと親に見捨てられる」「スタイルが良くないから生きる価値ない」「顔が悪いから人前に出てはいけない」とかの強迫観念に繋がる。最後二つは想像なんですけど、あとのは高校時代にすごく発生させてた焦りです。
例えば、いわゆる結婚できない人。「年収はこれぐらいで、顔がよくて、スラッとしてて、話が合って、趣味に寛容で、身長何センチぐらいで、etc」
理想を現実に起こすと信じて語ってる分には頑張れと思うけど、いい人いませんかと言われたら知らん頑張れとなる。理想が大きすぎて現実と吊りあっていないのだ。
居場所と救いの話に戻ろう。
居場所にどういう能力を求めてる?救いにどういう能力を求めてる?
救いの本体は福祉かなとか考えたんだけど、福祉は支援者と被支援者がいて、心を開ききれる関係ではない。
— ハジ (@waterChroma) 2018年2月4日
たぶん、漠然とした「救い」という語の強さを他人に求める人って、心を開きながらながら無条件に愛される、認められることを望んでいそう。
居場所は居ることが許されてる外部で、救いは自分の中に根付くものだと思う。この村を守る為に!って戦うのか、自分が殺されない為に戦うのか。みたいな。
居場所は居ていいとされる場所だ。友達や家族と楽しく話しても、そこに留まる時間よりも日々の生活の方が長いはずだ。
救いというのは今つらいから欲しくなるのだろう。金がないだとか医療費がないだとか、具体的で現実的につらいことは福祉に相談すれば解決に向かえることが多い。
しかし救いを求めてたどり着いた居場所が、そんな気軽に劇薬をくれて精神状態が劇的に変わるわけはない。居場所は救いではない。わずかで確かな楽しさと自己肯定感を作ることができる場所だ。
わずかな楽しさを積み上げていけば居場所は救いに変わりうるけど、人間関係は大変だし過去の楽しさは曖昧だ。居場所そのものを絶対的な救いだと思うことは、たぶん結構難しい。
個人的には救いを他人に求めては勿体無いと思っている。
プラネテス(漫画)の二巻にこういうセリフがある。
「全部オレのもんだ。孤独も、苦痛も、不安も、後悔も。もったいなくてタナベになんかにやれるかってんだよ」
結局この主人公は最後丸くなっていく。あの尖り方が好きだったから残念ではあったけど、それもまた他者たるキャラクターの在り方なのでね、ドンマイ。他者に希望を持ちすぎてはつらくなるよ。
これ、実はしばらく前の下書きをちょっと手入れしただけなんですよ。
今、本当に救いを他者に求めたらもったいないのか考えています。
でもなあ。たぶん誰か決まった一人だけや一つだけに救いを求めることはおれできないな。
日々何百と人間を見ていても、誰か手をつなぎたい人なんかいなかったし深く知りたい人もいなかった。「本当は人を愛せるのでは」という救いを未だに夢見ていることぐらいはわかった。なんとなく空しい。
またね。