※個人の見解です

思考の整理や自分語り

最近考えてる話

人類皆平等思想が拡大してる気がする。みんな知らない人だ。なんなら自分のことだってよく知らない。自分すら他人。

子どもが自殺したから私が悪いと言うコメントに対して「あなたは悪くない」と言いたくなるし「ギリギリ死んでなかったらどうしてた?」って聞きたくなる。不謹慎で冷酷だ。

 

過去も未来もどうでもいいし。

あの時声をかけてたらっては思ったけどさ、なんか違うんだよ。そう、例えば、中学2年生の頃の第一回定期テスト、もっと勉強しておけばよかったと思いましたか?思ったかもしれませんよね。僕は思いました。

だけど念じて念じて念願通じて4月に戻ってから中学2年生の頃の第一回定期テストもう一回受けることは出来ないでしょう。もっと勉強していい点取りたかったなら中学2年生第二回定期テストの高得点を目指すしかない。そうして人間はトライアンドエラーで成長してきたはずだ。

過去を顧みることには虚しさが付きまとう。同時に安心感もある。事実は変わらないから後ろを見る必要は無い。

中学2年生の頃の第一回定期テストのことなんて実は覚えていない。精々、先生のマル付けミスがないか熱心に答え合わせをして1点足してもらったとかそんなのだろ。2点落としてたはずなのに黙ってたとか。

変わらないものを考え続けるのはしんどい。

 

この先あと何年、何日、何秒生きていくのだろう。って考えるのも意味がない上にしんどい。今この瞬間だけでいい。今だけに向き合う力が欲しい。

あまり器用じゃない。死人にかまけてる暇はない。見えない敵に怯えてる暇はない。

自殺することに真摯に向き合うのも生活のあり方の一つ。 

 

話は少し変わりますが、忌避するべきものをただ忌避しているのって危険ですよね。

例えばコカインやヘロイン。何故忌避されてるかと言うと法律があるから。ダメゼッタイだから。

これだけの情報でただ避けていると、「作用」に魅入られた時にもう帰ってこれない。「副作用」の怖さを知らないから。

例えば言い伝え。ここより海側には家を建てるなという言い伝えがあるから。それが絶対だから。

この場合「作用」はたくさん家を建てられる平地で「副作用」は津波がぶち当たる家になることだ。

 

自殺の作用は現世からの離脱で、副作用は仲良くしてくれた人たち全ての悲しみと虚無だ。死ねば世界は終わるかのように見えるが、残念なことに世界は続いてる。クソッタレな世界が。お前は見事に捻じ曲げてくれたよ。死んでからぜってー殺す。

 

副作用もちゃんと確認して手を出さないのは余裕のある部類なのかもしんない。死ぬほど死にたかった頃はなんも気にしてなかったもんな。エネルギーって怖い。

 

 

おれは悪くない。妹が死んだことはただの事実だ。死んでなかったらどうしてたかな?精神科に行かせることぐらいできたかな?そんで、お前は、誰だったろうか。誰なんだろうか。赤の他人と何が違ったんだろうか。今居ないって、それ存在してたんだろうか。

 

 

ちょっと一貫性がなかったですね。風邪っぴきです、どうも。

おやすみなさい。

正しさの話

決断を恥じることはない。後悔することもない。いや必要がない。恥じても後悔してもいいけど、必要がない。

 

『失敗して、本当は安心してるんだろう』

「そんなワケがあるか」

叶うはずのない夢を叶えられない理由ができて、安心しているんだろう

「そんな、ワケが、」

このまま地球に帰って、ぬくぬくと年をとって、あの病気がなければ俺も今頃はと夢を語りたいんだろう

「は、クソ、黙れ」

宇宙は真摯でないものを愛しはしない、だが許してくれる

「黙れ」

謝罪するなら今のうちだ

「黙れっつってんだろ!」

バキィッ!

 

適当に記憶のままに書いたので割りと違ってると思います。プラネテスというマンガで、宇宙ゴミ拾いが職業の主人公が事故で空間喪失症に陥ったときの自己との対話です。あるいは宇宙との対話なのかもしれませんが。最後逆ギレで頭を扉のプレートに打ち付けます。

あれぐらい自分の目的にワガママにいれたら気持ちいいだろうなと思う。強固な、たった一つの決意ならではの不安定さはあるけど。

 

夢が一つしかないって怖いです。大学入学できてなかったら(滑り止めはあったけどそっちには興味がなかったので)飛び降りる気満々でしたからね。

目標は二つ以上持て、と手塚治虫は言っていたらしい。彼の場合は医者か漫画家という凄まじい二つだったらしいけど重要な話だ。母に言い聞かせられたが残念ながらおれはそんなに要領良くなかった。

 

不安になる。選んだ道で正しかったのか、一浪したくせに卒業してからずっとパソコンを眺める無職人をやってることは正しいことなのか。

さて、そんじゃあ「正しさ」って何だろう?世間一般常識か?小路のおばちゃんの井戸端会議か?

「平均点」のことか?小中で何回平均点チャレンジクエスト失敗した?俺は小中まで(たぶん)全クリしたけど高校で受けたクエスト全部失敗したよ。

そこでやっと気付いたけど、平均点ってほとんど満点の人とギリギリ二桁とかで安心する人で形成されてるんですね。取れなくなったから言いますが、「みんな90点ぐらい取れるもんだと思ってた」。それが正しさだと思ってた。

 

冒頭のもう一人の自分との対話は「俺は90点どころか100点取れる」ってギリギリのラインを歩く危ない人だ。正解は100点にあったから不安定だった。鋭くなりすぎて今にも折れそうな感じが好きだったが、結果的にやつは愛を知って丸くなった。目的も達成した。ギリギリまで尖ったキャラクター像が好きだったから残念な気持ちがあった。

だけど、通った道が正しさになる。あのキャラクターが愛のしなやかさを知ったことはきっと正しかったんだと思う。

 

正義の反対は別の正義。悪意に普遍があろうと正しさの普遍はない。歩いた道こそ振り返れば正しさだ。あの時の最良だ。

開き直ろう。生きてる瞬間を全部大切に。あるいは全部投げやりに。後悔しない形ならなんでもいい。

 

 

健常根性論に近いのかもしれない。書いていて何かを消耗した。もっと優しくて鋭いものを書きたかったんですけど。文章の流れがイカレてるからかもしれない。なんだか気持ちよくいかない。

書いてる途中amazarashiの奇跡という曲が流れて、あ、これに全部書いてあるじゃんと悔しくなった。正解でも間違いでもそれが分かるのはどうせ未来で今は走るだけでいい。諦めるのも引き返すのも僕らの答えでいい。

そんなことを思った今日のメンヘラ.jp。

menhera.jp

生きてたらなんとかなるなんて訳はない。と妹の自殺の記事にブクマコメントが入ってた。不謹慎モードな時に読んだから、それはそうだと一人で大笑いしたが、「お先真っ暗な中死んだ虚無」になるか「決意してしまった人」になるかぐらいの差はあると思う。

人生つらくて、未来が暗いから死ぬって、虚無そのものになるみたいで怖い。空虚に喰われるって、どうですかね。スゲー嫌いな怖いものに喰われてその一部になるってどうですかね。それでもよかった記憶もあるけど。どれが正しいでしょうね。

 

長くなってきた。やめやめ。おしまい。吐き気する。

身近な話

自分には起きる筈が無い。人は大変だなとテレビを観て同情してる。

なんだって間近にある筈だ。キーボードを叩いてる今心臓発作でも起きないとも限らない。脳梗塞だってありうる。急に魂だけあちらの世界に行って廃人化なんてファンタジーなのもありえないとは言い切れない。自分の話だけではなく、一階に降りたら母が倒れてるとか、欠伸をしてるうちに兄貴が車で事故るとか、そういうことだってある。どこかの誰かの癌細胞は転移し続ける。

無限の可能性を恐れて「自分には起きる筈が無い」と同情するのかもしれない。高みの見物だ。楽なもんだろう。

認知症になる原因は死への恐怖だ、とどこかで見かけた。真偽の程は分からないのだけど、すごくしっくり来た。考えた人はすごい。言いえて妙だ。

 

「自分だけは大丈夫という確信をこの時代に持てるんなら相当な権力者か馬鹿だ」

これはamazarashiのメーデーメーデーという曲の歌詞。だがしかし相当な権力者にだって等しく死は訪れる。死って優しい!権力があっても大丈夫じゃない時は大丈夫じゃない。

 

中古の漫画を買おうとして、急に「なんのために?」と疑問符が浮かんでしまった。

いずれ死ぬ。死んだらおれが集めたものもこの家も意味はなくなる。なんのために?いつ死ぬかも分からないのに?

ウツの訪れというより、唐突に現世に冷めたような視線を得てしまった。醒めたとも書ける。その悟りモドキが不愉快だったから漫画は買った。

ブラックジャックのまだ持ってない巻が安かったから買ったんですけど。一話に一人以上ずつ大変な人たちがいるわけじゃないですか。それを俺は娯楽として消費するんですよ。反芻もしますけど消費なんですよ。何人もの苦しみや喜びや絶望や希望を読むんです。

他人の人生に同情するために金銭を消費する。時間を浪費する。人生を濃密にする必要経費だと言えればオーケー。

なんのために?

あ、空しい。

 

テレビの健康番組でこの人の血が悪いから改善しなきゃとか、長生きのための運動とかを言う。

死んだらそれまでで。1秒後に死ぬかも分からないのに、何をそう面白おかしく不安を煽って語るのだろう。

 

当事者になる覚悟が足りないと思う。

常に俺は人生の当事者だ。俺の人生の当事者だ。そうあるべきだ。もし戦争が始まったら性別違和の人は兵役に行くのか工場で作業になるのかとかくだらないことをクソ真面目に考える人生の当事者だ。

今この身には脳の不調が心臓の不調が内臓の不調があるかもしれない。今この自堕落な瞬間に母が死ぬかもしれなくて病魔は萌芽しているかもしれなくて兄が死ぬかもしれなくて病が跋扈してるかもしれなくて犬は何も身体の不調を伝えられないだけで倒れているかもしれない。みんな死ぬよ。無駄になるよ。

明日は我が身だ。次はお前だ。同時にあんただ。そうして来たんだ。

すぐに当事者になる。いくら心配したってなるようにしかならないよ。考えて変わらないことで気を揉まなくたっていい。どこかそれなりにいい位置に集束できるって。安心していい。死ぬほどつらい思いをしたことあっても今これを読めてるんだからさ。

ただ覚悟はする。いつまでも生きていくのだと思わない。「平均寿命までで考えるとあと60年も生きるのか」とか、「じいちゃんは61で死んだからそこまでか」とか考えないでいい。そういう絶望はする必要もない。明日死ぬつもりで生きろ。永遠に生きるつもりで学べ。これはガンジーだったっけか。

ケガも病魔も死もすぐそこだ。安心して、全力で走って食って寝よう。

なんだって収束するさ。大丈夫。

 

食欲が死んでるけど食ったらお腹壊しました。早く現世に酔いたいです。おしまい。

本とかの話

僕は今日、朝は人とLINEをして、とりあえず一安心したらシュトヘルが試し読み無料だった巻まで読み、昼飯を食い、腹痛を起こして吐き気と戦いながら用量を自然に飛び越え、落ち着き、マンガが面白かったから何か読みたいなと鋼の錬金術師を出し、3巻の途中で読み疲れ、自分で勝手に出したブラックジャックの話題でブラックジャックを読みたくなっている。

ブラックジャックは文庫本サイズであと2冊を除いて持っている。必ずブックオフで通る場所。

 

それなりにマンガを読んでいるほうだと思うけれど、大体のものは一読で覚えられないから何度でも楽しめる。今週のジャンプの話題とか振られてから調子を合わせておいてもう一回読み直す。

一読以上をするようになったのは、小説だけど芥川龍之介の河童からだった。中学校かそこらの頃に読書週間でオススメにあがってたから買ってもらって、ラノベばっかり読んでたからなかなか手を出してなくて母が先に読んで、「止めはしないけどちょっとまだ難しいんじゃないかな」と言われた本だった。購入から5年、20歳ぐらいでやっと読んだ。父が死んだからだ。

自分の感覚では、仲のよかった家族が逝去するとそれまでほどほどに好きぐらいだったことにドハマりする。すごく好きで浸かっていたくなるんじゃなく、沼に頭から飛び込む感じ。家族それぞれ持っている。「は?そんなに?」ってなるほど。

失くした重大なものから目を背けるための機能なんだと思っている。冷たいだとか思われるかもしれないし、立ち直れない人や後を追ってしまう人はきっと熱を持っているのだろうと知ってる。おれ(家族)の喪失の許容方法が「他のものにハマる」だっただけだ。持て余した熱はどこかに向ければいいかなって。苦しみ続けるのはしんどいもんな。

 

河童、何故か父親を亡くした心にクリーンヒットしてしまい、結構気持ち悪いほど読んだ。時間潰す?本?河童!程度ではなく、鞄に財布とノートと筆入れと河童!というレベルだった。もう持つことに依存してた。1、2年読み続けてからやっと芥川龍之介のほかの作品にも手を出した。完全に生活の一部になるほど読んでから、やっと繰り返し読む楽しさを知った。

新しいものを読み続けるスタイルからあるものを何度も読むスタイルに移行しただけかもしれない。新しいものの刺激に耐えられないのかな。よく噛む良さを知ったのかな。

 

何度も読んでる本は、小説では河童だけで、漫画だと…失踪日記、アル中病棟、ブラックジャック亜人ぐらいかな。あっ、プラネテスも読んでる。短編とか短い作品が好きですね。亜人はどんどん長くなってるから段々読まなくなっている。新刊がでたら10回ぐらい読むだけ。だけ?だけってなんだ?

 

今日はたぶんまた少し読んでる詩集を読み進めます。あとせっかくなのでブラックジャック亜人も読みたい。プラネテスは一巻だけでいい。

 

今日はすごく頭を働かせてるせいかお腹が減る。腹痛なのかはらへりなのかはっきりしてほしい。暑いし。

それでは、この町はなかなか蒸しますが、皆さんよい夜を。

郷愁の話

どこかに帰りたいと家でも思う。帰る場所は今ブログを打ってるここであるはずだけど明確に心臓から飛び出る針を感じる。喜びは炭酸水みたいで怒りは蒸気。悲しみは溶けかけのつらら、楽しみは膨張。郷愁は針の形状だと思う。

 

これはたぶん死にたさの類型なんだろう。そういえば妹もたまに言ってたや。そのときも分かるわーって笑って答えてたなおれ。こういう後悔が加速するときすごく帰りたくなるんです。

エモい、という単語を最近ちょいちょい見かけますが、ぼくが死ぬほどエモくなるときは大体公園です。もう手に入らないものが欲しくなるのだろうなと考えました。

幸福そうに遊ぶ家族連れ。春の日曜日の昼過ぎとか。土曜日だとなんとなく余裕のありそうな親御さんたちも日曜は明日仕事だからとか夕方早めに帰りたそうにするんですよ、そんで子供はまだ遊び足りないんですよ。どっちも声を荒げるというより自分のやりたいことを持ちながらも互いを理解しようとする気持ちは若干あって。温かくてまだ日は高くて空は綺麗な水色してて。もう一回だけとか言ってターザンロープ掴んでやったけどやっぱもっかいやりたくなって。まだ帰りたくなくて。

騒ぎ立てる徒党を組んだガキは絡んでくるから得意じゃないけど、そういう、まだコミュニティが家族しかないガキを見てるとなんだか悲しい。しかもコミュニティが(外見だけかもしれないけど)順当に潤滑に回ってるんですよ。なんですかあの幸福な家族。田舎に何件かあったりする宗教だってびっくりだ。あれが幸福と健全の形だと思うよ。価値は人によるものだと思うが俺にとっては間違いなく幸福だ。胸が張り裂けそうという言葉がぴったりだ。

 

父が病床についてから、あぁもう俺は大人で、父さんはたぶんもう昼過ぎの公園にも庭先にも出れないんだろうなって景色がすごく遠くなった。どこかに突き落とされたみたいに。

夕日が差し込んだ病室で無理矢理日に身体を当てる父の姿は庭先にしがみつこうとしているようで、家族みんな精一杯笑っていたから笑ったけど異常に胸が痛んだ記憶がある。父に関してはスゲー辛かった記憶もあるのに死は人を美化してしまうから不思議だ。まあ思い出でまで辛くなりたくないからこれが人間の忘れ方なのかもしれない。生き方なのかもしれない。攻撃性も痛みも現在だけで十分だ。

 

幼少期に母や兄と行っていた公園に先日行ったら雑草がぼうぼうで、忘れられた記憶のように退廃してた。あそこに残ってる文明は塗りなおされたらしい遊具ぐらいだ。

今はもう身体が重くて登れなさそうなやせた木はまだあったが、隣の桜はすごく枝が減っているように見えた。一人平日の昼間にブランコを漕ぐ無職をしていたらポップなピンク色の自転車に乗った子どもとその親が来たよ。もう帰りたくなったから帰ったよ。

帰りたい場所は幸福な記憶なんだと思う。永劫帰ることは叶わないから、楽しかった記憶や、安心するだろうという本能を頼りに家族を形成していくのかなとか考えたよ。

俺は帰れない。帰りたいけど帰れない。またもや自己矛盾を作ってしまったけどね、健全な幸福の先に行くよ僕は。郷愁ぐらい飛び越えてやるぜ。

おやすみなさい。

ぼくのかんがえたさいきょうの自傷とかの話

先日、腕を切っていないことをよかったねと言ってもらって素直に嬉しかったけど実は腕を切らないことがぼくのかんがえたさいきょうの自傷行為とは言えなかった!

 

形の無かった痛みに整合性を持たせるために刃を立ててたのが過去。

形ができた痛みに気付きつつも刃を立てないのが現在です。

正体がわからなかったからいやだったものはもう既に切り傷って形になっている。転じて、正体の分からない何者かは切り傷だと知ってる。痛みを痛みとせずに興奮に変える脳内麻薬のうんちゃらかんちゃら。

 

ずっと前から俺にとって、刃物は傷つけるためのものじゃなくて、大切なものだった。

あんまりキンキンに鋭いから優しさを履き違えてしまったんだと思う。そんで依存した結果が自傷行為の中毒だ。

何でも断ち切れそうな強さはあるけどそれは違ったんだよ。辛さの形のことは痛みとして彫りだしてくれたけど、それ以上依存するべきじゃなかったんだ。何でもは断ち切ってくれないし優しいわけじゃなかったんだ。

形がある敵は倒さなきゃいけなかった。あんまり強大だから倒せなかった。

 

現在。

辛くてしんどいことがあったら、未だに腕ががったがったに暴れる(ような錯覚を起こす)。それを鎮めるために腕をぶった切ってしまいたくなる。ただ起きて死にたい時だって刺激が欲しくなる。つまり切りたくなる。インスタントに一足飛びした現実感とか快感が欲しい。

それを奥歯で噛み潰すのが最悪な感触で気持ちがいい。気が狂いそうで腕が千切れてしまいそうな禁断症状を押し潰すのが本当に最悪でクセになる。

形がなかったものに形を与えて、また形を排除している段階だ。

自傷行為を脱却するプロセスとして正しいかはちょっと分からない。というか噛み潰すことが最大の自傷行為である認識でいる。

 

何回か言ったことがあるかもしれないけど、ブラックジャックが「禁断症状は48時間で最高になる」と言った。ヤク中になっていた先生を治療することになった回だ。今も俺は一番辛いところを求めて迷走してる。最高の禁断症状はどれだけ辛いんだと痛いんだと正直ワクワクした。薬物なんかやってない、それも一人暮らしの時期にだ。

期待通りワクワクしたまま禁断症状に襲われたりして、一人で唸ってシーツに穴を開けて、結局かなりの期間切っていない。

 

すげえっちゃすげえかもしれないけど、切らないことこそ自傷行為になってるから世話ない。堂々と喜べない。まー禁断症状を自傷行為に転換できるのは特異な例なのかもしれないなあ。知らないけど。この場合精神依存だったか肉体依存だったかどっちなんだろうね?実はどっちでもなかったんかな?身体にまで侵出した中二病かな?

 

光トポグラフィや血液検査が発展したらぼくは詐病になりそうと怯えてる。しかし病気だと現実では公言してないからいい気もする。怯える必要も無い。いきやすいようにいきるのみだ。今日も眠剤は飲んだ。が、これが生きやすい道の一つなら仕方ない。

寝るのに緊張も化学も要らなくなるといいね。いいよね。

誰も後悔することがないといいと思うのは平和ボケの贅沢か。空想ぐらいは許せ。ところでこの日記日本語通じてたでしょうか?不安です。

おやすみなさい。

20170519

死にたいって何なのか、たまに考える。

なんで死にたくなる人と死にたくならない人がいるのか。

単に日々が楽しいか楽しくないか程度の差なら希死念慮なんて言葉生まれただろうか。

 

高校生の頃からアンダーグラウンドを覗き込んでた。

所謂ドラッグの知識やオーバードーズの知識もその頃貯め込んだ。知識ばかりで使ったことはない。(その上、現状も同じ成分かとかは知らない。)

ラリってるばかりのやつらが人生楽しんでるかというと、実は案外そうでもない。気楽なもんだと思って見始めたけど全然そうでもなかったんだ。

あいつらはどこまで行っても救いはないんだなと絶望すらしていなかった。人生つらいなあってへらへらして諦めたまま笑ったふりをするのは楽しいかい?そうかい。

 

くだんねえなあ。あ、いや、いいよ、全然。君は君のままいろよ。おれの体じゃないんだ止めれないよ。おれはおれの衝動を抑えるので精一杯だ。君は君のまま生きろよ。言っておくが生きてても死んでても先は不透明で考え出すとしんどいよ。

妹君は今どこでどういう苦労をして死にたくなってでも既に死んでるから死ねないでいんの?アハハ、しんどい。今を生きろ。死ぬほど。

どうせいつかは去る街だろ。大丈夫だよ。いいよ。生きてたって平気さ。死んでも平気かはおれはまだ死んでないから言えない。

 

さてさて、ラリってるお前らの先に救いや究極の活路はあるのか?あるいは死地はあるのか?

たぶんだけど、ない。

かなしい。

歯食いしばって誤魔化していくしかないんだ。つらいなあ。つらいねえ、兄弟。

高校生のころに生きるしかないって気付いたのに死のうとして何で部活を辞めたかって聞かれても誤魔化してたよ。へらへらと。諦めたまま笑って。

それは将来的な傷にしかならないんだなと今だから分かった。分かったことだって過去のことだしどうでもいいや。こうやって忘れていけるのは人間の長所であるはずだよ。各位積極的に忘れよう。

 

 

 

日記ですが、18日からポケモンGOがいわタイプのイベントだったようで、昼間に長々ポケモンしてました。最近何故か晴れが多いので気圧の低下が怖いです。

イワークたくさんとって、ハガネールにするぞ!っていうのが目標です。メタルコートは一個しかないのでしばらくまったり待ちますよ。あとめっちゃヨーギラス欲しい。もってないから。

 

おれはおれがなにで、何者だろう。母さんに似てると言われてどう答えようもなかった。手をぐーぱーするおれは何者だろう。心の在り処はとか考え出すのは歴史上の哲学者たちも考えてたよな。今の科学技術でもまだ分かっていない。

ある一個体のために所属がある。所属があるために一個体があるのか?

鶏が先か卵が先か?

どうする?どうしよう。決めるのは俺だって気が薄々してる。納得した道にしか行けないやつだから。

決めなきゃねえ。おれの所属と現在地はどこだろう。現在地って座標なのか時間軸なのかそれとも他の何かかどうだろう。

 

どうしようね。めんどくせーけど死んでからもっとめんどかったらマジで死にたくなりそう。それもめんどいやな。先に決めような、おれ。

おやすみなさい。