プールの話と詩
この所雨がすごかったり暑かったり落ち着きませんね。今日は気温こそたいしたことないですがちょっと溺れそう。
散歩をしたら小学校のプール指導のような声が聞こえた。あの頃のプールって楽しかったよね。僕は好きでした。着替え時間も含めて2コマぶち抜きで体育になってて、シャワーめっちゃ冷たかったりして、自由時間は潜水ごっことかして。次の授業の時身体というより意識が完全に重たくなってる感じ。いかがですか。エモっ。
おれは泳げるタイプの子どもでプールも好きでしたが、身体に対する違和感を覚えてからは授業以外まったく泳いでいない。高校まではプール授業があった。
プール好きだったって言っといてなんなんだけど、あれはトランスジェンダーには大変に残酷だ。
男女完全区分けならば自身が分けられた場所に居心地の悪さを感じるし、男女同時にやっていると「なりたい身体」と「自分の身体」の差異がどんどんクッキリしていく。同じコマでやっててもどうせ男子A,B,C、女子A,B,Cとかだしね。
まあ思春期にプールってだけでもある程度残酷なのかもね。あらぬ誤解を生み生まれしてるのかも。
知らないけど。
先日、「普通になりたいだけ」という意味で言えばトランスジェンダーと発達障害は近い位置にあるのかな?と思った。
俳優の誰々みたいになりたいとかじゃない。イケメンになりたいとかでもない。高身長じゃなきゃやだってわけでもない。ただ普通になりたかった。そこらへんを歩いてる有象無象みたいになりたかっただけだ。
こんなのただのないものねだりだけど。まあ人並みになりたかったよねって、少し勝手な親近感を覚えた。
おれと性自認とかが似た友人の一人は「身体の性のまま年を食うのは耐えられないからいずれホルモンを打ち始める」と言い、もう一人は「ハゲるのはやだからまだ考え中だ」と言っていた。人並み、欲しいですね。考えないで任せておいても普通に成長(老化?)すると普通のルートが待ってるって羨ましい。おーいえー。
夏、夏ですよ。
そろそろ妹が死にましたよ。きっとです。いや命日は8月なんですけど。昨日の暑さは近いものがあった気がしました。
暑さに頭を持っていかれるな。イカレてきたら冷静に水風呂に入ろうな。頼むよ。冷たいシャワーでヒャアッってなろう。
詩です。××には地名が入っていたのですが特定がいやなので伏字です。そう伏字入りの詩です。
―――
××の地の湿度に今日も
溺れながらも汗をかく
ここから出られぬ焦燥が
再びぼくに降りかかる
ただのふとした思いつきが
ぼくの迷走を二段飛ばし
ロシアンルーレットじゃぬるい
あいつにそんな度胸はない
ふるさとの地の夏の力は
あいつの頭をとかしてた
葬儀屋さんのドライアイス
腸の生きものを黙らせた
ふるさとの地よ、どこかとおくへ
××の地よ、離しておくれ
ふとした思いつきの罪状
溺れながらも呼吸しろ
ぼくは生きたままで逃げる
20160822
―――
妹氏死後一作目です。
逃走したいですね。したくないですか?おれはしたいです。
中原中也の詩集を開いたら語感がすごく良くてよかったです。透明感は好みじゃないけど音がいい。
電話を待たないといけないから書き始めたのですがまだ電話来ません。出かけていいですか?
おしまい。
20170708
男性的な性規範が怖いから自己認識が中性であるわけではない。成れなかったものには成れないから、二極のどちらにもなれなかったのだ。
万人に伝わりそうな例を考えると、「猫は猫であるからいくら自分を犬と思っても犬には成れない」とか。どうですかね。
猫であるという事実は他者から規定される。いくら犬の振る舞いを身につけていてもお前は猫だと他者から規定される。体格から、鳴き声から、体臭から。
こんな第三者からの決め付けぐらい吹き飛ばせばいいと思うだろ。吹き飛ばしたい。
ただこれが如何せん面倒で、二十余年の生活(特に制服が必須で第二次性徴が起きる思春期)で獲得してしまった事実だから難しい。過去の自分を振り払うのが難しい。何度かリセットをかけてると思っていたが足りなかったらしい。
完全に犬の振る舞いを自分のものとした猫は、己が猫であったと気付いても猫のコロニーに戻ることは難しい。己は犬であるという誇りがあったはずで、猫の仲間ではないと思っていたからだ。猫はそのうち、「己は犬だと思っていたが、犬ではないと規定されたために、犬でも猫でもない何者か」になってしまう。
こういうアイデンティティの揺らぎが思春期頃の経験。
「猫は魚が好きなはずです。違えば猫じゃありません」と教育されるのが同性愛者のアイデンティティが揺らぐ方向性でしょうか。違ったらすみません。
そういやセクシャルマイノリティの皆さんは他の精神疾患を罹患する率が高いそうですよね。いやぁ、分かる分かる。マジョリティはたぶんこういう揺らぎは起こしてないんだもんな。すげえよなあ。逆に精神疾患人口からセクシャルマイノリティ人口を測ったら何%が来るんだろう。こういう統計きっとあるよね。落ち着いたら探してみよう。
僕は僕ならではの体格をフル活用してしまい死にたみを増幅させてしまいました。
大体の場合(限りなく100%に近い場合)は笑い話とかネタで言ってるので笑って欲しいんですけど、下手に共感されるとお前に何が分かるんだと暴れてしまいたくなります。暴れる才能なくて泣くだけなんですがね。こういう時、親友を殺された洋画の主人公とかみたいに怒りと悲しみで狂えたらいいのにねって思うよ。だけど母さんだってこの体格に生みたくて生んだわけじゃないだろうからね、お門違いってヤツだよね。こういう時理性的だよね。えらいえらい。
僕はチビの癖にレディースもキッズもあまりデザインが好きじゃないからメンズしか着ない。メンズの棚に並んでる服にはすげーいいなーって思ってもSサイズは存在しなかったりするし、たとえ在っても丈も袖も長い。
足が驚くほど小さいのでメンズはない。なのに靴屋で見るメンズシューズは大体かっこいい。これを履けたらいいなと思う。そんでレディースは大体好みじゃない。キッズはキッズなりのエナメル加工とかがムカつく。
高いところにあるものは生活だけで鍛えられたバランス感覚で普通に脚立のいちばん上(本当は乗るなって書いてあるよ)に乗って取る。
いいなと思った鞄だって体格と相対的に見てしまえば大概でかい。
でかすぎるものは格好悪いといつか自ら思ってしまった。
なに、この縛りプレイ。ドMなの。気持ちいいとかほざく前に死んじまう。勘弁してほしい。早く抜けださなきゃ。ヤバイなと。
そんな日でした。
あの服もあの鞄も欲しかったな。悲しいな。おわり。
自責の話
なんとなくどうしようもないので、「自責」について考えてみようと思う。
自責は生むものが少ない。
自責とは自分を責めとがめること。(広辞苑より)
責めとがめたその先には何もない。自らが起こした心の動きだから、罰の形を誰かから与えてもらえないのだ。
カッとなって知らない人を殺してしまって、たまたま逃走が成功してしまった。なんでもなかったように幸せに暮らして、黒々とした気持ち悪さを抱えたまま生きるようなものだ。細い自責が続いていって、あの日の事件で崩された未来とかそんな番組になったら見ていられないんだ。幸せなフリをして生きていく。苦しいままで生きていく。
さっさと捕まって「オメーは人を殺したから無期懲役だ。」そう言われてしまったほうがよっぽど楽。法規から贖罪の方法を教えてくれるから。
もしかしたらもっと開き直って悪者になるのかもしれないけど、おれは人を殺したことがないから実際どうなるか分からない。
自責がただ責め続け潰す行為ならやめたほうがいい。つまり自傷行為の一環としては本当に身を滅ぼしかねないからほどほどにしないとちょっとヤバい。自責から明確な罪の形と、それを清算する方法を見い出せる余裕があるならいい。死なない程度の自傷行為ならいい。
例えばおれは、なんで妹の心の声をもっと聞かなかったんだとかあの日の昼になんで帰らなかったんだと散々自責した。余裕のない、自罰的な行為だったと思う。
ただの悲嘆反応のようにも感じるが、夜などは泣き出すと止まらなかった。
屍を背負って歩き出す覚悟がなかったんだろう。
話がズレた。今日は妹の話を書きたい訳じゃない。
人付き合いから発生する自責に至る前に、自衛するのは大変良い手です。一度ケンカした人には仲直りしてもあまり近付かないとか、あ、話すようになったはいいけどちょいこの人やっぱ合わねーやと思った「友達」とは必要以上に接触しないとか。
小学生のときならいざ知らず今現状は仲良くなれるタイミングじゃなかったとか、そもそも根幹にある人間性が合わないとかクソほどある。人間性が合わないのになんとかやっていくなんて面倒くさいことやらないでいい。
まあこういうのをやりすぎな感じで極めていこうとするとたぶん一匹狼の紛い物のぼくみたいになるんですけど。これはこれで孤独に震えることもあるよ。だけどやっぱ人同士のしがらみがない分シンプルでいい。
自責する自分に酔わないこと。誰だってより良く生きたいから戦争だってあるんだろう。人間であることを諦めないでいい。辞める必要もない。許されないなら自分ぐらいは自分を許してやろう。相手だって所詮人間だ。
もう一回だけでも、心から笑えるようにやってってくれたらなと思う。
書きながら思ったんですけど、学生時代って色んな人と顔こそ合わせるけどツイッターほど四六時中どうしてるかなんて絡んでなかったよね。授業とかめっちゃあるし。
「あ、こいつつまんねえ」って思われてあんまり誰も話しかけてくれなくなるとか。だけど毎日誰にでも明るく挨拶してるあの子はおれにも平等に挨拶して話しかけてくれるとか。はぐれものたちの仲間にいれてもらってそこでもすみっこにいるとか。ああいう緩さがいいな。
楽しければ一緒にいて、楽しくなければ去って、落ち着けるなら居て、だらだら追いかけない。コミュニケーションてそんぐらいでいいね。おれはそんぐらいでいいや。
割とスマホ依存発症してたんですけど、これまでスマホ触ってた時間にハンドスピナーいじるようになったらなんか大分落ち着いたのでおすすめします。お腹が減ったので、おしまい。
ツイートの補足のようなブログ
カントー地方から地元に帰った。ふるさとは遠いぐらいがちょうどいいね。この井戸の底にいちゃいけない。
気を遣われてるから遣い返すの、正直あまりメリットないから次回にとっておいたほうがいいと思う(夜更かしへの警鐘)
— ハジ (@waterChroma) 2017年6月24日
家族と酒を飲む事になると「飲む事」にかなり要点が来る。母は何度も「お酒飲める子たちでよかった」と言っていた。もし飲めなくなったら価値ががくんと減るんだろうか。反面教師や教師たちがTLに多く居るためか、単に欲求の問題か、最近は飲まない日が多いんですけど。よくない子になってるのかな。
飲み会のようになると自然と夜が遅くなってしまって、気を遣って起きて喋ってくれてるなあと思う。そう気付いてしまうと恩(?)を返すために会話を続けてしまう。やがて向うは眠くなるととっとと寝る準備に入るが、自分は相手のために慣れない夜更かしをしているのに何をしているんだろうと思う。耳は疲れてギギンギギンと響いているのに、何をしているんだろう。誰のために何をしているんだろう。
ここ最近で虚無と感じていたものより遥かに強大な虚無感が来て、他人事のようにこれはつらいと思った
— ハジ (@waterChroma) 2017年6月24日
風呂がしばらく使えそうにないから自室に帰った。整髪料を使っていたし汗で身体がすごくべとついていたから流したかったのだけど、先取りされたから仕方ない。部屋で座りもせずに「何をしているんだろう、何がしたいんだろう」と思っていると何故か涙がこぼれてきた 。鉄槍が喉から腹にかけて貫通したような重さ。痛み。ぐるぐる回る赤黒い線。死ねば解決する、終われる。簡単に、どうせお前の人生なんて。
久方ぶりの、強大な感覚でした。すぐ主導権は取り返せたけど、高校生のころは毎日毎秒こうだった気がするけど。
これがエネルギーってやつの片鱗か。そりゃ気軽に生きろなんて言われたら爆発四散するわ。言葉には気をつけていきたい。薬飲んで寝ろ。
実は23日の時点で「文字を読み、読み上げること」に不快なばらつきを感じていたし、実家という地に帰ったことに伴う精神不安定だと思うから寝たら治る気がするんです
— ハジ (@waterChroma) 2017年6月24日
おやすみなさい
文字を読むことにはたまに不思議な怖気がする。それが読む行為だけにとどまることもあるし、二次元から音の振動に変わることな時もある。カラオケに行って普通に歌っていたら突如整合性が崩れた。途中からは歌詞を覚えていればできるだけ目を瞑った。カラオケはほとんど大声を出す場。一緒に行ったやつは歌うまだった。
「理解」という行程が何となく最近怖い。生活では意識してなくてもやってることもあるんだから冷静にいってほしい。
カントー滞在中大学の頃の友人と、メンヘラ.jpつながりの友人と会って、何がデフォルトだろうかと考えた。
希死念慮を思い出したことにより「あぁ、俺、現在は健常なんかな…」となった。健常社会にピリッと溶け込みだすべきなのかもしれない。
メンヘラであろうとは思っていない。ならどうだろう。
どうやってく?何してこうか?誰でもなくただ自分のために。楽しさのために。やりやすさのために。
ちょっと決めなきゃならんのかなあと考えてる。どうなりたい?何がしたい?
連日の夜更かしが響いてこんな時間です。まいにち夜10時に寝たい。おやすみなさい。
最近考えてる話
人類皆平等思想が拡大してる気がする。みんな知らない人だ。なんなら自分のことだってよく知らない。自分すら他人。
子どもが自殺したから私が悪いと言うコメントに対して「あなたは悪くない」と言いたくなるし「ギリギリ死んでなかったらどうしてた?」って聞きたくなる。不謹慎で冷酷だ。
過去も未来もどうでもいいし。
あの時声をかけてたらっては思ったけどさ、なんか違うんだよ。そう、例えば、中学2年生の頃の第一回定期テスト、もっと勉強しておけばよかったと思いましたか?思ったかもしれませんよね。僕は思いました。
だけど念じて念じて念願通じて4月に戻ってから中学2年生の頃の第一回定期テストもう一回受けることは出来ないでしょう。もっと勉強していい点取りたかったなら中学2年生第二回定期テストの高得点を目指すしかない。そうして人間はトライアンドエラーで成長してきたはずだ。
過去を顧みることには虚しさが付きまとう。同時に安心感もある。事実は変わらないから後ろを見る必要は無い。
中学2年生の頃の第一回定期テストのことなんて実は覚えていない。精々、先生のマル付けミスがないか熱心に答え合わせをして1点足してもらったとかそんなのだろ。2点落としてたはずなのに黙ってたとか。
変わらないものを考え続けるのはしんどい。
この先あと何年、何日、何秒生きていくのだろう。って考えるのも意味がない上にしんどい。今この瞬間だけでいい。今だけに向き合う力が欲しい。
あまり器用じゃない。死人にかまけてる暇はない。見えない敵に怯えてる暇はない。
自殺することに真摯に向き合うのも生活のあり方の一つ。
話は少し変わりますが、忌避するべきものをただ忌避しているのって危険ですよね。
例えばコカインやヘロイン。何故忌避されてるかと言うと法律があるから。ダメゼッタイだから。
これだけの情報でただ避けていると、「作用」に魅入られた時にもう帰ってこれない。「副作用」の怖さを知らないから。
例えば言い伝え。ここより海側には家を建てるなという言い伝えがあるから。それが絶対だから。
この場合「作用」はたくさん家を建てられる平地で「副作用」は津波がぶち当たる家になることだ。
自殺の作用は現世からの離脱で、副作用は仲良くしてくれた人たち全ての悲しみと虚無だ。死ねば世界は終わるかのように見えるが、残念なことに世界は続いてる。クソッタレな世界が。お前は見事に捻じ曲げてくれたよ。死んでからぜってー殺す。
副作用もちゃんと確認して手を出さないのは余裕のある部類なのかもしんない。死ぬほど死にたかった頃はなんも気にしてなかったもんな。エネルギーって怖い。
おれは悪くない。妹が死んだことはただの事実だ。死んでなかったらどうしてたかな?精神科に行かせることぐらいできたかな?そんで、お前は、誰だったろうか。誰なんだろうか。赤の他人と何が違ったんだろうか。今居ないって、それ存在してたんだろうか。
ちょっと一貫性がなかったですね。風邪っぴきです、どうも。
おやすみなさい。
正しさの話
決断を恥じることはない。後悔することもない。いや必要がない。恥じても後悔してもいいけど、必要がない。
『失敗して、本当は安心してるんだろう』
「そんなワケがあるか」
『叶うはずのない夢を叶えられない理由ができて、安心しているんだろう』
「そんな、ワケが、」
『このまま地球に帰って、ぬくぬくと年をとって、あの病気がなければ俺も今頃はと夢を語りたいんだろう』
「は、クソ、黙れ」
『宇宙は真摯でないものを愛しはしない、だが許してくれる』
「黙れ」
『謝罪するなら今のうちだ』
「黙れっつってんだろ!」
バキィッ!
適当に記憶のままに書いたので割りと違ってると思います。プラネテスというマンガで、宇宙ゴミ拾いが職業の主人公が事故で空間喪失症に陥ったときの自己との対話です。あるいは宇宙との対話なのかもしれませんが。最後逆ギレで頭を扉のプレートに打ち付けます。
あれぐらい自分の目的にワガママにいれたら気持ちいいだろうなと思う。強固な、たった一つの決意ならではの不安定さはあるけど。
夢が一つしかないって怖いです。大学入学できてなかったら(滑り止めはあったけどそっちには興味がなかったので)飛び降りる気満々でしたからね。
目標は二つ以上持て、と手塚治虫は言っていたらしい。彼の場合は医者か漫画家という凄まじい二つだったらしいけど重要な話だ。母に言い聞かせられたが残念ながらおれはそんなに要領良くなかった。
不安になる。選んだ道で正しかったのか、一浪したくせに卒業してからずっとパソコンを眺める無職人をやってることは正しいことなのか。
さて、そんじゃあ「正しさ」って何だろう?世間一般常識か?小路のおばちゃんの井戸端会議か?
「平均点」のことか?小中で何回平均点チャレンジクエスト失敗した?俺は小中まで(たぶん)全クリしたけど高校で受けたクエスト全部失敗したよ。
そこでやっと気付いたけど、平均点ってほとんど満点の人とギリギリ二桁とかで安心する人で形成されてるんですね。取れなくなったから言いますが、「みんな90点ぐらい取れるもんだと思ってた」。それが正しさだと思ってた。
冒頭のもう一人の自分との対話は「俺は90点どころか100点取れる」ってギリギリのラインを歩く危ない人だ。正解は100点にあったから不安定だった。鋭くなりすぎて今にも折れそうな感じが好きだったが、結果的にやつは愛を知って丸くなった。目的も達成した。ギリギリまで尖ったキャラクター像が好きだったから残念な気持ちがあった。
だけど、通った道が正しさになる。あのキャラクターが愛のしなやかさを知ったことはきっと正しかったんだと思う。
正義の反対は別の正義。悪意に普遍があろうと正しさの普遍はない。歩いた道こそ振り返れば正しさだ。あの時の最良だ。
開き直ろう。生きてる瞬間を全部大切に。あるいは全部投げやりに。後悔しない形ならなんでもいい。
健常根性論に近いのかもしれない。書いていて何かを消耗した。もっと優しくて鋭いものを書きたかったんですけど。文章の流れがイカレてるからかもしれない。なんだか気持ちよくいかない。
書いてる途中amazarashiの奇跡という曲が流れて、あ、これに全部書いてあるじゃんと悔しくなった。正解でも間違いでもそれが分かるのはどうせ未来で今は走るだけでいい。諦めるのも引き返すのも僕らの答えでいい。
そんなことを思った今日のメンヘラ.jp。
生きてたらなんとかなるなんて訳はない。と妹の自殺の記事にブクマコメントが入ってた。不謹慎モードな時に読んだから、それはそうだと一人で大笑いしたが、「お先真っ暗な中死んだ虚無」になるか「決意してしまった人」になるかぐらいの差はあると思う。
人生つらくて、未来が暗いから死ぬって、虚無そのものになるみたいで怖い。空虚に喰われるって、どうですかね。スゲー嫌いな怖いものに喰われてその一部になるってどうですかね。それでもよかった記憶もあるけど。どれが正しいでしょうね。
長くなってきた。やめやめ。おしまい。吐き気する。
身近な話
自分には起きる筈が無い。人は大変だなとテレビを観て同情してる。
なんだって間近にある筈だ。キーボードを叩いてる今心臓発作でも起きないとも限らない。脳梗塞だってありうる。急に魂だけあちらの世界に行って廃人化なんてファンタジーなのもありえないとは言い切れない。自分の話だけではなく、一階に降りたら母が倒れてるとか、欠伸をしてるうちに兄貴が車で事故るとか、そういうことだってある。どこかの誰かの癌細胞は転移し続ける。
無限の可能性を恐れて「自分には起きる筈が無い」と同情するのかもしれない。高みの見物だ。楽なもんだろう。
認知症になる原因は死への恐怖だ、とどこかで見かけた。真偽の程は分からないのだけど、すごくしっくり来た。考えた人はすごい。言いえて妙だ。
「自分だけは大丈夫という確信をこの時代に持てるんなら相当な権力者か馬鹿だ」
これはamazarashiのメーデーメーデーという曲の歌詞。だがしかし相当な権力者にだって等しく死は訪れる。死って優しい!権力があっても大丈夫じゃない時は大丈夫じゃない。
中古の漫画を買おうとして、急に「なんのために?」と疑問符が浮かんでしまった。
いずれ死ぬ。死んだらおれが集めたものもこの家も意味はなくなる。なんのために?いつ死ぬかも分からないのに?
ウツの訪れというより、唐突に現世に冷めたような視線を得てしまった。醒めたとも書ける。その悟りモドキが不愉快だったから漫画は買った。
ブラックジャックのまだ持ってない巻が安かったから買ったんですけど。一話に一人以上ずつ大変な人たちがいるわけじゃないですか。それを俺は娯楽として消費するんですよ。反芻もしますけど消費なんですよ。何人もの苦しみや喜びや絶望や希望を読むんです。
他人の人生に同情するために金銭を消費する。時間を浪費する。人生を濃密にする必要経費だと言えればオーケー。
なんのために?
あ、空しい。
テレビの健康番組でこの人の血が悪いから改善しなきゃとか、長生きのための運動とかを言う。
死んだらそれまでで。1秒後に死ぬかも分からないのに、何をそう面白おかしく不安を煽って語るのだろう。
当事者になる覚悟が足りないと思う。
常に俺は人生の当事者だ。俺の人生の当事者だ。そうあるべきだ。もし戦争が始まったら性別違和の人は兵役に行くのか工場で作業になるのかとかくだらないことをクソ真面目に考える人生の当事者だ。
今この身には脳の不調が心臓の不調が内臓の不調があるかもしれない。今この自堕落な瞬間に母が死ぬかもしれなくて病魔は萌芽しているかもしれなくて兄が死ぬかもしれなくて病が跋扈してるかもしれなくて犬は何も身体の不調を伝えられないだけで倒れているかもしれない。みんな死ぬよ。無駄になるよ。
明日は我が身だ。次はお前だ。同時にあんただ。そうして来たんだ。
すぐに当事者になる。いくら心配したってなるようにしかならないよ。考えて変わらないことで気を揉まなくたっていい。どこかそれなりにいい位置に集束できるって。安心していい。死ぬほどつらい思いをしたことあっても今これを読めてるんだからさ。
ただ覚悟はする。いつまでも生きていくのだと思わない。「平均寿命までで考えるとあと60年も生きるのか」とか、「じいちゃんは61で死んだからそこまでか」とか考えないでいい。そういう絶望はする必要もない。明日死ぬつもりで生きろ。永遠に生きるつもりで学べ。これはガンジーだったっけか。
ケガも病魔も死もすぐそこだ。安心して、全力で走って食って寝よう。
なんだって収束するさ。大丈夫。
食欲が死んでるけど食ったらお腹壊しました。早く現世に酔いたいです。おしまい。