※個人の見解です

思考の整理や自分語り

発信の話

バイトだと思ったら全然時間に余裕があった。何故か腹壊してるけどブログを書こう。

 

高校生の頃好きなサイトがあった。今も好きだ。

グラフィックデザインのサイトだから画像欄がすごく良かった。一度好きなものを見つけると傾倒しがちな僕なので、ガラケーの待ち受け画面はそのサイトの画像しか使ってなかったぐらいだ。

 

デザインだけではなく、当時はかなりの回数を更新されていたブログがすごく好みでよく読んでいた。

たぶん当時は学生か、働き出してすぐぐらいだったんじゃないかと勝手に思ってた。そういえば正確な年齢は知らないや。学校なんかももちろん知らないや。

デザインとブログだけが好きでその人を知ろうとはしてなかった。それでよかったと思うし当時と変わらず活発な動きを尊敬してる。すごい人だと思ってたら段々本当にすごい人になっていってるのが面白い。

話がズレた。

いつかの日記(救いの話 - ※個人の見解です)で書いたが、死に掛けてた高校生の頃に詩集に救われたことがある。その単純さと透明さに本当に救われた。

好きなサイトの主は感情や状況をすごく感覚的に示していた。時々クソ真面目な風にただ食事の内容を載せてるのに、結局人生論になってたりして面白かった。

詩的ではなかったけどすごく読みやすくて、頻繁に思いを表現してくれていて好きだった。

直接的な感情じゃなく思考のパターンを淡々と書いている感じだ。

 

今その人は同じようにグラフィックデザインサイトを経営してた人が設立した会社で働いたり変わらずイベントに呼ばれたりしてるらしい。

サイトを見に行ったら日記の最終更新は去年の大晦日だった。

精力的に活動されてるのはすごく嬉しい。しかしもっとブログを読みたいなと思う。

表現し切れなかったモヤモヤを文章化するのはすごい。すごく労力がいるから最近は少ないんだろう。

 

誰かさんのブログを読んでいたら、「20代前半の頃ほど発信したいことがない」と言っていた。

もしかして、あのブログの主も言葉にして発信したいことは減ったのだろうか。たくさん仕事もあるっぽいしな。怖いな。今考えながらキーボードを叩く速度をセルフで競ってるような俺の思考ももうすぐ干上がってしまうのだろうか。

干上がることこそ楽しく生きる術だとは思う。知者は早死にしてしまうイメージがある。頭が持つ思考の海を自在に泳ぐために、身体のエネルギーが足りなくなっていくからだ。歩けるようになったらストレスは減るしエネルギー消費量は浮く。

 

どっちに流れるだろうか。23歳。もう分岐点だろう。

生きる理由が見つからなかったら死のうって決めてたなら、せめて水を満たしていきたい。どうなるだろう。

20170219

昨日一昨日は親に引きずり回されて、無理を隠す技術がセミプロ級のおれはしっかりくっついて走り続けて親が家に帰ってからの昨晩に全ダメージが来た。

まず身体が物理でへろへろ。PC前の椅子に座ってる状態からお茶を入れようと立ち上がって崩れ落ちる身体。面白。疲れすぎ。ははは。

 

 

 

 

何が悪いのかいいのか分からなくなってきてとりあえず酒を飲んでみたらガンガン回ってしまって何故か凶悪殺人犯の発言集みたいなものを見ながらキャスを流す。

殺人犯と自分の常識の違いに耐えられず身体がパクっと裂けるイメージが断続的に流れる。

流した血を両手の平にのせたときのような冷たい無力感。

重力が血だったのではないかというぐらい開いた手の平が重い。

血が温かくて生きてる心地なんてしたことはない。表皮を伝ってる最中の記憶はほとんどない。

あったのは小さな血だまりと、冷たい血餅。固まった血がぱりぱり割れる感触と傷口の熱だけ。

過去の感覚が全部そのとき帰ってきてしまって、だけど実際に傷があるわけでも血が流れてるわけでもない。見事な禁断症状。出来たら切りたくはない。

何をすればいいかわからなくてキーボードに伸ばした手の丸まり方が妹の死後硬直とそっくりで手を見ることが怖くなった。

それならばベッドの隅に置いてある手ぬぐいをドアノブにかければいいのかと意識だけが自殺ルート。まだ手の平を見つめてパソコンの前で震える身体は置いていかれたまま、意識は2,3度手ぬぐいを手にとるまでする。早死にしそうなおれに友達がくれた健康10か条が書いてあるくだらない手ぬぐい。震えたりしてる割にずっと笑い続けてる。あぁ、死にたくない。生きたくない。死にたい。

置いてかれたままの身体でコメントを打つ。現状とネット上の意識が食い違ってて気持ち悪い。落ち着けよ、面白いな。

飲みすぎたら倒れるように寝ないかなとアルコールを追加したけどイメージの血が止まらない。

途中で眠剤を飲む。きかねえ。眠れない。オーバーヒートも止まらない。この日は鼻炎で息が下手だったこともあり焦燥感満載の呼吸になる。怖い。

毎日一つずつ飲んだ錠剤のシートが昨日で一枚空いたから、何か取り返しのつかないことをしたような焦りを覚えて暗くして横になっても首を吊らなきゃいけない気がしてでも家族で2人も首吊りだったらもう呪われてる感ヤバいよね!それはだめだね!だめだね!ダメだよ、ちょっと、

眠剤をもう1つ飲んだ。起きてから調べたら最大量3mgで僕は4mg誤飲していた。

 

疲れたら何が何でもすぐ寝ること、眠剤は寝るそのときに飲むことをこれから気をつけたい。

悪夢で誰かを連れて逃げ続けていた。攻撃されて攻撃して逃げた。あ、死ぬって思ったあたりで起きた。起きたときものすごく疲れていた。今もバイトがあるみたいだから起きてるけどしんどい。

疲れた、疲れた。充足した眠りをください誰か。お願いします。

敵意の話

許せないって言葉は割とどこでも目にする。

心地いい言葉ではないけど、許さないって心の底から発する人のことが少しだけ羨ましい。

許すとか許さないとか、許されないとかは自分の正義が貫かれて初めて生まれる悪意のようなものだと思うから、のらくら生きてるおれには黒すぎて眩しい。

ネット上ではっきりとしたその人の存在感を感じさせるのは大体黒だ。優しさには鈍感で、敵意には敏感でいる。白は風景と混ざる。

誰かに敵意を向けてるわけではないのに傷つけていく人のグレーの輪郭線はナイフでできているから気をつける。こちらが間違えなければお互い傷つかない。

 

黒色に触れると過剰反応する。風景とあまりに違って、自身の潔白も相手の黒に染められたように錯覚する。

だから人同士の摩擦は起きる。勘違いから生まれているんだ。

 

友達に向けられた悪意を自分が聞いてしまって怒るのは果たして最良の行動か。

いや、おれだって友達の悪口を聞けば腹が立つぐらいはする。友達は大切だ。ただ悲しいかな、自分のことは大切じゃないから自分のことのように大切とは言えない。

悪意を垣間見ると、胃の中に黒いものが入って気持ち悪い。息も苦しくなる。でも大体ただの「特徴」と思ってた部分が悪口に変わってるだけだから、あまり構わない。言いたいやつに増徴しない程度に喋ってもらってガス抜きさせるのが役割かなと思ってる。

おれが怒ってもどうしようもない。ある時、大学の友人Aから大学の友人Bに対する悪口を言われたが、AはBのことを友達とも思っていない。だから悪口を言うのもおかしな行動でもなかったし、気分が悪くなってそういう陰口はやめようと制してもAは不満げにぶつぶつ言っていた。

これじゃ僕がAの友人たる「利点」はない。利用してもらえなくなる。

Bの行動に耐えて黒色を溜め込んでしまったAは、ただ黒を少し空気に放ちたかっただけなんだろうと感じた。

 

悪意や敵意がおれに向けられたものかそうでないかの判断は難しい。へらへら笑って走り回っていれば多少の擦過傷は気にならないから。

友達に向けられた悪意や敵意、人とのコミュニケーションに滴る黒色は結構恐ろしい。

恐ろしいけどまあ、友人Aは僕のことを信じて生臭い黒色を教えてくれたなら、Bが良いやつでもAのことを受け止めたいとも思うよ。どんなにグロテスクで見たくなくても。

 

感じた事実は曲がらない。ストレスは溜まり続けるばかりなら、少しでも楽になるようにどちらの友人にも話してもらいたい。どんな悪意を聞いてしまってもどちらも友人だから気にしない。

黒も白もどうでもいい、灰色で空気みたいな曖昧な正義感で、人としての形を落としていきたい。

善人すぎて忘れられるほどになりたい。

オフ会ってなんだと考えた話

オフ会って、なんなんだー!

冷静に何なのかって言われると困る。確かに分からないや。

何が出るか分からないもので対価を払えって言われたら尻込みしそうだね。視点の違いって面白い。

誰かに理解されないことに金と時間を費やすというのはどんな行動を取ろうと変わらないのか。納得する人はするし納得しない人はしないだけか。そうだな。

 

オフ会ってなんやってせっかくなので考えてみてるけど、実体を視認できるというのが最大の面白楽しいポイントかなあ。

人は身体とか所属とかの情報を減らして、インターネットという匿名の海を漂っている。

だけどある程度仲良くなってみると、情報量がいくら文字で話してももの足りない気がすることがある。もっとなんというか、生の情報が欲しくなる。別にないならないで問題ないけどあったらいいなーと思うんだな。

例えて言うなら、スイカは普通に食べてうまいけど、塩を振ってもうまいみたいな程度。あったら嬉しいけどなくても気にしない。

そんな軽微なもの足りなさ。

 

ネット上の人工知能じゃなく、何か生活とか歴史のある人間だったと確認できるのは面白い。

 

「顔を合わせて話す」という、至高のコミュニケーション(と、おれは教育された。)に縛られているのだろうなーとも思う。

スイカに塩を振るのはまったく絶対の行動じゃないのに、塩を振らなきゃおいしくないと思ってるみたいな。

若干の鎖を感じる。断ち切りたい。

 

あえて冷たい言い方をするなら、情報を得るためにオフ会に行く。何をするかと聞かれたら遊ぶよ!って答える。

まあ遊びの内容は浅草寺に行くとか、バッタ食べに行くとか目的あったほうが時間の浪費は少ないかもね。盛り上がりも分かりやすいし。今回はその内容がカラオケだっただけだ。

行き当たりばったりを愛してやまないからゆるい感じで十二分。

 

 

おれは思考をまとめるためにいつも時間がかかる。その間、表情が明らかに考え事してたり、手をぐるぐる動かしたりしながら考えてる風を出す。

文字なら書いては消しながら考えるけど、音声のみのやり取りはただ黙ってるみたいになるからちょっと難しい。

情報場が狭いと一部を掘り下げがちになるが、おれは当たり障りないやつだからもっと広い情報場があったら楽だろうなあと思う。

インターネット辞めろ、って話に落ち着きそうだからこの話題を先に辞めよう。

 

あぁそうだ、ネット上のほうがぶっちゃけた話をしてるから、もう引かれること憐れまれることは少ないだろうって思うのも個人的にはでかい。

ここで大喧嘩しても生活に支障はあまりないって不思議だ。生身の人間同士の緊張感が少ないのかもしれない。

 

 

どうでもいいけれど、syrup16gのさくらは妹が死んだ日に買っていたCDに入っていた曲で、amazarashiのさくらは妹が好んでいた曲だった。カラオケで気付いた。

こういうどうでもいい共通点を見つけると大概一人で死にたくなる雑魚なんだけど、事の顛末とか、おれが命日に思ったことを全部記事でぶちまけてあるからか、一人で少し笑って流すことができた。素晴らしい。

 

あと今日ありがたいことに笑い顔からいい人感あると言われた。

年を重ねるならくしゃっと笑って、顔にシワいっぱい作るようないい人感を目指してるからすげー嬉しかった。

 

今日構ってくれた人たちありがとう。楽しかった!よく休めよ。

おれはたくさん寝たい。

20170212

みんなって言葉はすごい影響力を持つ。最早暴力的だ。

「みんなやってるよ!あれ欲しい!」

「みんなって誰?」

という問答に経験のある人は少しはいると思う。

同調圧力にひれ伏し続けたガキだったから「みんな」が持ってるDS欲しかったし、「みんなやってるよ」と言われれば違和感を覚えたとしても同調した。

「みんなはこうやったらしいよ」と聞けばその手順に従う。

 

他の人の行動を気にしすぎだ。輪を重んじてすらいない。

ただの一歩でも、見えない境界線からはみ出ないように必死であるように思う。

あとからコソコソ言われたり、あいつは違うと言われたりしないように。

あんまり「みんな」の動きを注視すると自分がいなくなる。観察者になってしまう。

もったいない事をしたかもしれないなあ。

 

冒頭の問答にはたぶん想像されたような続きがあって、

「えぇと、○○と、××と…あれ?とにかくみんな!」

「なんだ、全然みんなじゃないじゃん」

と来る。

飛び出た特徴が羨ましくて「みんな」という徒党のイメージを作りだしてしまっていただけで、実際そんなにやってる人はいなかった。

自分の感覚や持ち物と比べて飛び出た違和感は全部敵だ。優れていると思っても劣っていると思っても、理解すらできなくても敵だ。

DS持ってる同級生は全部敵だった。単純に羨ましくて悔しかった。

違うものは排除しなければならない。それができないなら、徒党の仲間に入らなければならない。自分が違和感を感じ続けることは不快だからだ。

”しなければならない”と繰り返した割におれは諦めてたけどね。あぶれてしまわないならどうだっていいけど。

 

 

悲しいことに何が言いたかったのかわからんくなった。

「みんな」って何者だ。怖い。

 

ご飯食べたい。

20170211

日記書くときに音楽をかけている人が数少ない読んでるブログに最低でも2人いるのだけど、もう尊敬すら感じてる。

音楽があるだけなら楽しく集中できるし、なんならセンター国語だって絵を描くのだって音楽かけてたほうが集中できてた。

だけどいわば作文であるブログ作りをしているときに流れている歌詞があると完全にそれに引きずられる。

なんなら歌いだすからもう文字打つどころの話じゃない。耳なじみした曲のほうが集中しやすいらしいと聞いたことがあるけど、耳なじみが良すぎると主に歌詞に行動の主権を奪われる。

おれもなんか聴きながら日記書きたい。いいなー。

 

ここまで日記を書いてから集中力が途切れてツイッターを見ていた。

リツイートで見た、人の体験談を載せているサイトで、「死」という簡潔なワードのみがタグ付けされてる話を見かけた。

何故か笑った。死って!他にもなんかもっと言葉あったろ!せめてもう一つ二つとかさー!って一人で笑ってたらお隣さんが立ち話してやがってうっせーな殺すぞと思って窓際に立っていた。何度か苦情を申し出ていたからお隣さんは察したのかすぐ引っ込んだけどもう隣の家を燃やそうとかしか考えてなかった。

ここでようやく気付いた。なんだか攻撃性が高い。

外向きの攻撃性は倫理の抑制がある分まあマシだけど、これが内に向いたら自主的な流血沙汰ありうる。できたら避けたい。

攻撃性上げてくのは後々すげー疲れてるからやめたい。

僕は博愛主義者だからなと言おうと思ったら博愛主義というのは全人類が相思相愛しろという主義っぽかったから博愛やめた。

主義って付くと一気に大仰だ。自分は自分で、それでいこう。

 

気圧から解放されてテンションが高いのだろうか?でもまだ頭はどくどくしてる。パソコンの見すぎか。

喜怒哀楽ミスってるって言った割にもう怒が出た。ちょっと笑うわそれ。

 

ハンターハンターを前から借りててしばらくかけて読んでいたのだけど、噂のゴンさんはどこだと思ってたら見事ゴンさんのいる巻を借り損ねたようですぐ友人に電話をかけて借りてきた。よかったよかった。やっとゴンさん分かる。

このフットワークの軽さは生来のものかハイテンション由来か。

自分がどういう者なのか、何が平常なのか分からなくなる。反復性鬱だと言うのだからそろそろ平常でもおかしくないんじゃない?どーなんだ?いつが平常だったんだ?

 

勢いのまま文字を打ってるとどんどん文章の形から崩壊していって直すのがたいへん。

今パソコンからはイージーリスニングの川の音流してCDプレーヤーからは虚無病のCDを流してる。

なんだ、聴きながらでも出来んじゃん。

状況の話

自分が見ていない内にすごく状況が変わってしまった、と思うのは日々の変わる速度についていけていないからかもしれない。

 

ずっと前まだテレビを見ていたころに、アハ体験とかやってた気がする。

徐々に変わる映像を見てどこが変わったか気付くことはできないけど、最初と最後の画像の違いは一目瞭然だ。

なんか、たぶん、それだけ。

ちゃんと敏感に映像の変化を察知している人やヤマを張って当てる人もいる。

ご飯おいしいなあって別のこと考えてたら見てない人もいる。当てられないのが悔しいから考えてないしそもそもあまり見つめないおれみたいな人もいると思う。

たまたま最初と最後の画像の違いを断片として知ったから状況の変化に驚けるんじゃなかろうか。

ずっと変わって行くさまを見てたらあまり気付かないだけでいつだって変わってる。

変化に気付いたからって別に人生ごと変わるわけじゃない。さすがに青かった空の写真が赤くなったら気付くと思うし。

 

だから安心していいし別に関わることを諦めなくてもいい…こうしておれは浅くしか関わりを持てずに広くなっていくんだ…。

別に辞めていったっていいけど、革新を求めるなら辞めない。

何がどうなったって大丈夫。変わってみたいならやってみよー。

いつも、気付いたら画像を差し替えられていて、おれがいなくても進むんだと当然なことに何故か傷ついてた。傷つきすぎたら関わることを諦めてた。

思えば不思議な観点だ。

全部できるだけ受け止めたいと思うわりには狭い心な気がする。

自分が友達とつるまずに生きてるうちに、ある人は友達とつるんでた、その記憶をそこで語り合ってるだけなのに、なんで一歩引いてしまってるんだろう。

嫉妬の形が歪んでるみたいな、違和感を感じる。

喜怒哀楽の設定ミスで怒にスイッチが入ることが滅多にないように、七つの大罪もたぶん設定ミスしてる。罪を犯さないならいいことととるべきか。

 

少し前から、ストーブ点けると本体が熱くなりだした。あと1ヶ月ぐらい持ってくれ。

少しずつ部屋のものを減らしているけどまだなくならないの面白い。ちょっと引越し準備急がないといけない。

減らしてるつもりのものがただ実家に移動してるだけというのも面白い。

今日は朝昼食べてなかったけど、夕方にパスタを食べた。えらい。