※個人の見解です

思考の整理や自分語り

拠点の話

人の好き嫌いがないのはすごいねと言われて一瞬「いや、好きとか嫌いとか思えるのすごいぞ?」と反論しそうになった。

「許さない」って言葉に意思が必要であるように(敵意の話 - ※個人の見解です)、好きも嫌いも意思が必要だ。

 

自他共に認めるコミュ障の友人が「相手の気持ちを自分の尺度で測っていいものか分からなくて声かけられない」と言ってきたとき、咄嗟に「でも宇宙空間で漂うより地球に立ってたほうが動きやすくないか?」という絶妙に分かりにくそうな返答をしてしまったことがある。

想像は無限大だ。三者三様十人十色千差万別。ずっと続いてく。おれが良かれと思ってやったことが余計なお世話になるかもしれない。その人がこれまで培ってきた価値感を推測するという途方もない道のりになる。そんな距離を歩くなら拠点があったほうが楽かもよ、ということを言いたかった。

拠点とは自分が自分の目線で経験した事柄であり、意思である。

 

その友人もあまり人の好き嫌いはないやつだ。そういう話に至るほど共通の知り合いがいないだけかもしれないけれど今のところ素敵な友達の話しか聞いていない。

思考の拠点を作ること、そこに城を建てることがたぶん好き嫌いの意思を固めることになるんじゃなかろうか。

僕自身は根無し草よろしくに、たぶん基本的に拠点がない。

精々建てるにしても簡易テントぐらいだろう。拠点に絶対の自信があるわけではない。

風で飛ばされない家を建てた時点から仲間とそうでないものが生まれる。

頑強な城になれば仲間か敵になる。そうしたことで人に対する好き嫌いが生まれる。

生来の鈍感さと、獲得した中立感が仲間意識も敵意識も鈍らせているんだと思う。

 

居場所がないというと「あるじゃん」と言われて「は?…あ、え、……ほんとだ、確かに」とボケたことを言う、贅沢な行為をしてしまった。改めて考えてみると色々な人に助けられてるし気にかけてもらってる。ナメくさったこと言っててごめん。ありがとうね。

居場所ってのはイメージだけど、拠点に作られた家で、仲間かそうでないものか測られているような気がする。

家主がおれを仲間と認めて合鍵をくれているのに、その家の「仲間か否か」という価値感が怖くてせっかく受け容れてもらえても入れないのだ。色んな家の鍵は貰ってるのにどこにも入れず野宿する。中立を求めすぎた結果であるように思う。コミュニケーションへたくそだなあ。すごいなあ。その鍵は気付くと変わっているのでたぶん半分以上もう使えません。

 

拠点はそこらじゅうにある。意識のマップじゃテントはどこにでも建て放題。その生活にも満足してるぜ。

どうにも所属することができないと思っているのは、人を好きになる勇気もなければ嫌いになる勇気も欠けてて、万人を愛した過ぎるせいだと思う。

その癖、頂いた「認められたい」という本

認められたい

認められたい

 

 を読んでると殴られたような呻き声をあげ続けています。「自分の所在をはっきりさせたい」と打とうとしたが所在がないっていう所在でいるから根無し草やってんだった。

 

せめて話してて楽しい人とは緊張しないで会いたいな。おわり。